体験を語る
- 医療機関
過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた

| 場所 | 能登町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月18日 |
発災直後の状況
聞き手
発災当初の様子をお聞かせください。
升谷さん
横浜に住んでいる私の長女家族が、年末年始のお休みで帰省していて、元日には横浜に戻る予定だったため、地震発生時、私は長女家族(長女と夫、子ども2人の計4人)を乗せ、車で能登空港に向かっていましたが、大田原のトンネルに入ったときに地震警報が鳴ると同時に、強い揺れを感じ、急いでトンネルを出ると、目の前の道が割れ、その先の動が陥没していて先に進めず、結局、いくつかの迂回路をたどって、何とか能登空港駐車場にたどり着きました。
たどり着いたときは日が暮れかかっていて、その夜は私と長女家族の計5人で、空港駐車場で車中泊となりましたが、そこには、能登空港の午後便の飛行機に乗る予定の人や、避難してきた人達が大勢(500名以上と聞きました)いて、中には妊婦さんや持病が悪化する人、怪我で搬送される人もいて、空港スタッフから「ドクターはいませんか」と問い合わせがあり、医師である長女夫婦、そして私が手挙げし、長女家族は、1日の夕方から3日の午前中まで、私は2日の午前中まで、空港駐車場にて、長女の夫が中心となり、体調が悪くなった人や怪我をした人のケアにあたりました。
私は、発災翌日の2日に、家族(能登町松波にいた妻、次女家族、高齢の母)との連絡がつかず、住まいやクリニックがどうなっているかも情報が入らず、分からなかったため、危険を承知のうえ、空港で長女家族と別れ、能登町松波に帰るべく車を走らせ、やっとの思いで松波に到着しましたが、町は我が家も含め多くの家屋が損壊し、見るも無残な状況になっていて、変わり果てた町並みに唖然としました。私の職場であるクリニックの建物自体は損壊を免れましたが、津波に襲われ床は泥で覆われ、物が倒れて散乱し、医療機器や空調設備も使えなくなっていました。
私の住まいも損壊し、とても住める状況ではなく、発災後1週間ほど地元中学校の体育館で避難生活が続きましたが、避難所には一時数百名の避難者がいて、中には体調を崩す人や骨折、胸部圧迫で搬送されてきた人達もいて、たまたま居合わせた役場の保健師さんや帰省中に被災し、体育館に避難してきた金沢の病院に勤務する看護師さん達とケアにあたり、ほとんど休む時間がありませんでした。怪我で搬送されてきた人のトリアージ(編注:治療の優先度を決める手法)、コロナやインフルエンザと思われる感染症、糖尿病、高血圧や心臓病等の持病があるが、普段服用している薬を持たずに避難してきた人たちの対応が特に大変でした。
クリニックでは津波が入った床の泥をかき出したり、助かった電子カルテを発電機を電源として立ち上げたりして、1月の第2週から、少しずつ診療を開始、寝泊まりは診療所敷地内にあった車庫や物置として使用していた別当の建物でしていました。いまだにそこで生活しています。
聞き手
防寒対策も難しかったのではないですか。
升谷さん
水道はダメ、お風呂やトイレもダメで、トイレは簡易トイレを使用し、入浴のため、1週間に1回くらい、金沢まで片道4~5時間かけて行っていました。停電は発災後1週間あまり続いたかな。ただ電気が来てもエアコンが地震や津波で使えなくなり、暖を取るのも大変でした。
次女とその子ども2人(小学生)は内灘町に二次避難し、子ども達は、三学期は内灘町の学校に通っていました。
診療の状況
聞き手
寝る間もないほどとおっしゃっていましたが、ずっと診療行為にあたられていたのですか。
升谷さん
具合が悪いと呼ばれると、その都度対応せざるを得なかったため、何時から休むというのではなく、休めるときに休むという具合で、睡眠も眠れる時に眠るとった感じでしたね。体重も1週間足らずで4~5㎏減りました。
聞き手
医療器具は被災当時あったのですか。
升谷さん
往診カバンだけです。カバンの中には血圧計、非接触型体温計、酸素飽和度測定器等があったので、バイタルサインのチェック程度は可能でした。
聞き手
避難所の衛生環境はどのような状況でしたか。
升谷さん
もう最悪です。水道がダメで手洗いができない。トイレは水洗で、水が出ないため便器に汚物がたまり、交代で掃除はしていましたが、とても使えるような状況ではありませんでした。 空腹はある程度我慢できますが、排せつは我慢できませんからね。避難所で使えるトイレの確保は大変重要だと思いました。
聞き手
診療の対象者も相当な数ですよね。
升谷さん
高齢者が多く、避難した方のほぼ全員が対象でした。過酷な環境で、普段は元気でも体調を崩す方もいました。
聞き手
どういう症状を訴える方が多かったですか。
升谷さん
発熱、眠れない、倦怠感、意識障害等や、家屋が損壊し転倒、骨折したと思われる方も何人かおいでました。
骨折していると思われても、バイタルサイン(血圧、脈拍、意識レベル、呼吸等)に問題がなければ、手元にある鎮痛剤を使用したり、固定したりして、受入れ先の医療機関が決まり、搬送手段が確保されるまでは避難所に待機してもらいました。4~ 5日待機が続く場合もありました。
聞き手
トリアージの話がありましたが、優先度が高い方、重症でも助かる可能性がある方というのは、具体的にはどういう方ですか。
升谷さん
胸部を圧迫された若い男性で、診た時点では、意識、血圧、脈拍、呼吸等のバイタルサインは問題なかったのですが、クラッシュ症候群の可能性もあったため、最優先で救急隊に搬送をお願いしたケースが印象に残っています。
透析を受けている方の対応も問題で、近隣の医療機関では対応できず、予定の透析日から遅れるケースが多々ありました。
聞き手
救急隊とのやり取りなどは誰がされたのですか。
升谷さん
発災直後はDMATやJMAT等の医療チームがおらず、自分で対応していましたが、3日目辺りからはDMATも入ってきていたかなと思います。救急車が来ても搬送先が決まらず、何時間も待つことがありました。
聞き手
感染症や発熱した方への対応はどうされたのですか。
升谷さん
町内に遭った調剤薬局にも津波が入って、調剤機器が使えず、ストックしてあったお薬も一部使えなくなり、避難所にあった市販薬等で対応していましたが、発災3~4日目辺りから系列の調剤薬局の薬剤師さん達が、お薬も持ってきてくれたため、ある程度処方が可能になりました。薬局店舗については避難所となった松波中学校の部屋の一部を借り受け、薬の調剤に必要な機器を運び入れ、仮設薬局として3月まで稼働していました。
聞き手
発熱された方は違う部屋で隔離していたのですか。
升谷さん
発災直後は避難所に抗原検査キットがなく、確診できませんでしたが、コロナやインフルエンザが疑われる方は、避難所となっていた体育館とは別の部屋に移っていただくようにしていました。ただスペース的に余裕がなく、十分ではなかったかもしれません。
避難所の体育館は1つのブースに10人ぐらい雑魚寝していて、感染が広がる可能性は十分あり、状態が悪化して搬送先の病院でコロナが判明した方もおいでました。
聞き手
水も限られており、手洗いやうがいができない中で、どうやって感染症対策をなさっていたのですか。
升谷さん
マスク着用、速乾性のアルコール消毒、換気くらいですかね。即席の避難所ではしっかりとした感染対策は困難だと思いました。
聞き手
DMATはいつ頃来られたのですか。
升谷さん
3日目ぐらいだったと思います。主に医療機関をサポートする医師会JMATもその頃からだったと思います。
聞き手
患者さんはどこの病院に搬送されたのですか。
升谷さん
主に近隣の珠洲市総合病院、公立宇出津総合病院で、そこでは救急患者はDMAT対応していたかと思います。そこで対応困難なケースは救急車やヘリコプターで七尾、金沢や県外の病院に搬送していました。
聞き手
それらの病院にはDMATの方がいらしたのですか。
升谷さん
医師、看護師等の元々いたスタッフも、ほとんどが被災しており、DMATが対応していたかと思います。
聞き手
1月の第2週目から、先生は舛谷医院で診療をされていたのですか。
升谷さん
そうです。私も含めスタッフ全員が被災し、ほとんどが避難生活をしていましたが、年末年始金沢にいた息子(院長)が1月4日に帰り、被災したスタッフも避難所からクリニックまで通ってくれて、当初は午前中の半日だけでしたが、1月中は診療できない医療機関も多く、半日で50~60人の患者さんが受診されて、大変でした。ただ、その後は町外に避難される人が増え、患者さんは激減しました。
聞き手
受診される方は、ご自宅で生活されている方が多かったですか。
升谷さん
自宅が損壊し、自宅では生活できない人が多く、避難先から通院された方が多かったように思います。
聞き手
避難所内にDMATがいても、先生のところに診療に来る方が多かったのですか。
升谷さん
避難所でDMATが診ても、そこで薬を処方、調剤することは困難なので、受診に来られる方はおいでました。
聞き手
先生のところにはJMATはいらっしゃったのですか。
升谷さん
JMATは度々来てくれましたが、舛谷医院はスタッフが頑張って出勤してくれていたので、JMATに何かをお願いすることはほとんどありませんでした。
聞き手
避難所に避難されている方の心理的ケア等もされていたのですか。
升谷さん
心理的ケアは、医師でなくても保健師さんや看護師さんでも可能なので、私が直接携わることはなかったですね。ただ私と会話するだけで癒される方も少なくなかったかと思います。
心のケア、PTSD的な問題は少し後になりましたが、精神科の先生も含めたチームが対応、また地元精神科クリニックの先生も仮設住宅などを巡回されていると聞いています。
聞き手
災害への備えについては、いかがでしょうか。
升谷さん
避難所では体温、血圧、脈拍、酸素飽和度を確認できるようにしておくこと、感染予防に必要なマスク、手袋、速乾性のアルコール消毒剤等を準備しておくこと、適切なトイレの確保、解熱鎮痛剤等のストック、食料品や水分の確保、電源の確保、雑魚寝も問題ですから適切な居住スペースの確保、避難者の診療情報を確認できるシステムの構築等でしょうか。
災害が日常と言っても過言ではない昨今、適切な避難所(安全であまり苦痛なく過ごせる場所)の設置は喫緊の課題かと思います。
聞き手
過酷な状況で診療を続けられた中、つらかったことはなんでしょうか。
升谷さん
避難所の一人当たり畳一畳も取れない雑魚寝はきついですね。若い女性は特に堪えたと思います。そんな中で体調を崩した人の対応に追われ、避難生活中に声も出なくなり、先にも述べましたが、体重もみるみる減少し、このままでは自分も倒れるのではないかとすら思いました。
聞き手
寝不足やストレスのせいでしょうか。
升谷さん
避難所では結構大声でしゃべる必要がありましたが、寝不足やストレスもあったかと思います。
今回の災害を経験して
聞き手
教訓として今後の災害に備えて伝えていきたいことはありますか。
升谷さん
そうですね、繰り返しになりますが、慢性疾患で普段から薬を飲んでいる人は、普段服用している薬を持って避難する、少なくともお薬手帳など、薬の情報が確認できるものを避難の際に持参することが大事ですね。また薬の内容も含め、避難されている方の診療情報を把握できるシステムの構築が必要かと思います。衛生面や感染対策、食料品の確保、適切な居住スペースの確保、清潔なトイレの確保も重要かと思います。
伝える
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避難所・避難生活
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「避難所の運営にあたって」 -
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「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
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「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
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「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
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「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
-
七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

