体験を語る
- 医療機関
物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~

| 場所 | 志賀町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月5日 |
はじめに
川村さん
本日は、病院の概要と被災の状況、その中で特に問題になったトイレ事情と、その問題に対して、当院の排尿ケアチームがどう活動したかを伝えられたらなと思います。
この写真は、1月2日の15時過ぎ、この病院に入院していた患者さんを他の病院に移送するために救急車両が院内に到着した時の写真です。すごくインパクトの強い写真だったので、資料の表紙に使いました。

富来病院、排尿ケアチームについて
川村さん
富来病院は、高齢者のとても多い富来地域で、訪問診療や介護医療院などの地域のニーズに寄り添う一方、この地域唯一の救急車の受入れ、入院加療を担っております。
当院の排尿ケアチームは、2017年に立ち上げまして、非常勤泌尿器科医をはじめ、看護師、作業療法士や検査技師、看護師など8名で構成されています。それぞれの専門性や得意なところを生かしながら、より快適な排尿のため、普段は院内の患者さんを対象に活動をしています。
皆さん、金沢方面から来たら、まずトンネルを抜けてパーっと海が広がったかと思います。富来病院は海のすぐそばの海抜2.6メートルという比較的低い場所にあり、隣には富来川が流れています。そのため、崖崩れや地盤災害のリスクが高い地域で、ハザードマップでも、危険な箇所と隣接します。
また、志賀原発から9キロ圏内にあることも、うちの病院の特徴の1つかと思います。いま振り返っても、1月1日の震災のとき、原発から大きな被害が出なかったことが幸いだったと思います。
地震発生当初の院内の状況
川村さん
94床に対して、4名のドクターと、58名の看護職員がいる中で、1月1日は、72名の入院患者に対して日直の医師1名と補助者も含む看護職員11名という配置でした。医師は副院長の整形外科医1名で、震災から数日間はそのまま医療活動を行いました。病院は休日の体制で、看護師や看護補助者さんなどの人員が少ない中での発災ということもあり、最初の安全確認などもなかなか困難でした。
ライフラインについて、一番決定的だったのは長期間の断水と、北陸の冬の寒さの中で、暖房器具が使えなかったことです。その後の医療活動において大きな苦痛を伴いました。この寒さとの闘いが1つの大きな課題でしたね。
現在はきれいになっているので、なかなか想像できないかもしれませんが、天井の崩落や壁の崩落も、院内の至る所でありました。中でも大変だったのは、上下に通る排水管の損傷で、約70トンの水がいっぺんに漏れ出てしまったことです。低い場所に水が溜まって、池の中を歩くような状況で、さらに暖房が使えないので、職員の足元が常に冷たい状態でした。
こちらが病室内の写真ですね。ナースカートに置いてあるパソコンに、看護師が記録を入れながら、両脇の患者さんのお世話や点滴を行っています。この、患者さんのところを回りながら、業務をしていた場所の壁や天井が落ちたということです。

DMATの到着と患者の搬送
川村さん
そんな中、DMATさんが到着したのが 1月2日の午前4時50分です。発災の元日20時頃に出られたそうなんですけど、道が通行止めであったり、行けると思った道が不通で戻ったりしたということでした。到着するまでにも数時間かかったとお聞きしています。
このDMATが、最初に富来病院へ来てくれた支援の方でした。「やっと助けが来て、すごくホッとした」と、当時の職員から聞いています。
その後「このまま暖房も使えない損傷の激しい院内で、72名の患者さんを診ていくのは難しい」ということで、患者さんの搬送が始まりました。
緊急車両でも到着するまでに何時間もかかる中、いかに安全・確実に患者さんを運べるか。搬送の手段とルートが最大の課題でしたが、DMATの指揮のもとに進めて頂きました。72名の患者さん全員の搬送が終わったのは1月5日です。患者さんが院内にいなくなったことで、院内の整備や傷病者の対応に人手が確保できてきたのがこの頃です。
患者の搬送完了から入院の再開
川村さん
発災から4、5日と経ってくると、いつも飲んでいたお薬が飲めずに、持病が少し悪化して救急外来に来たり、家の片付け中に怪我をしたりして、救急外来に訪れる患者さんが増えて、その医療活動がメインになってきました。
さらに時間が経過していくと、入院のニーズがどんどん増えました。先程も申し上げました通り、高齢の方がとても多い地域なので、少しの体調の変化であったり、病気の進行で、入院が必要な状態になり、避難所ではとても生活できないということがありました。
そのため「すべてを転院搬送するのではなく、金沢や七尾など、他の大きな病院の医療逼迫を防ぐためにも、なんとかこの病院で入院の患者さんを担うことができないか」と院内で話し合いが始まりました。損傷の少ない1階部分を入院加療にできないか検討し、リハビリ室や検査室、処置室を使い入院を再開したのが1月16日のことです。
入院再開に向けた苦労
川村さん
それでもすぐに満床になりました。もっとたくさんの患者さんを入院できるようにするため、支援に入っていただいた先生方から、プレハブを仮の病棟として利用するという提案がありました。
ただ、「酸素はどうするのか」「プライバシーは大丈夫か」「トイレはどうするのか」「ナースコールが届かないのでは」など、院内でも不安の声のほうが多く、本当にプレハブで患者さんの入院生活を診られるのか、職員の中でも大きく議論を重ねたところです。
そうは言っても、どんどん入院のニーズが高まりますし、とにかく点滴をして重症化を防げるのならいうことで、全部の問題クリアすることはできない中ではありましたが、取組みを進め始めたのが、発災から1ヶ月経った頃ですね。
可能な限り患者さんのプライバシーを守って、いつもの入院の環境に近い形を提供できるようにしよう、ということで、天井からカーテンを吊る代わりに、パーテーションを使ったり、床頭台をプレハブに移したり、可能な限り、環境を整えました。どうにもできなかったことが、上下水道に変わるものを設置できず、トイレや水の必要な事は行えず、床上排泄に限定され、洗浄などはいったん外に出て院内で行っていました。
プレハブ病棟や、院内のリハビリ室も使いながら、富来病院で入院できる患者さんは富来病院で診るということで、医療活動も少しずつ復旧させていきました。
避難生活中のトイレ問題
川村さん
そうした中で少しずつ、「なんとかならないか」という声が上がってくるのが、トイレのことだったんです。
院内でもトイレ問題がありました。断水していましたが、院内の貯水タンクが駐車場にあって、そこに給水車から給水してもらえば、そのタンクを通じて水を流すことはできます。ただ、同時に医療活動にも水が必要ですから、可能な限りそちらに回さなきゃいけない。
トイレも、障害者トイレなど比較的床のスペースが広いところで、簡易トイレを使って用を足していました。ただ、使用するのが元気な方ばかりではなく、足腰に負担が大きい方、自力でトイレに行けない方が多いので、とても苦しい状況でした。
患者さんだけじゃなくて、私たちスタッフもトイレは1日に何回も訪れますし、そのことも含めて、トイレがなんとかならないかという思いがすごくありました。
私も避難所から職場に通っていたんですけど、避難所では汚れたトイレが当たり前でした。仮設トイレも整備されましたけど、狭くて暗くて、どちらかと言うと行きたくない場所になってしまっていたので、避難してこられた方は水を飲むのを控えていました。
なんとか洋式のトイレを準備してほしいと声を上げて届いたトイレが、軽トラックの後ろに階段がついているものです。急な傾斜のある階段を80、90代の方が1日に10回以上昇り降りし、しかも屋外にあるので、雪のある外を歩きながら行くのは現実的じゃないなと思いました。でもこれが能登の地震の時に配置されたトイレの現状なのです。
これだけトイレ問題が起こる中で、「排泄の問題に関わっている、私たち排尿ケアチームが活動をして、何かできることがないか」という思いで、院内のチームで避難所を回っていくことになりました。
そうしてまで何とかしようと思ったり、排尿ケアチームで避難所のトイレの話題が挙がったりしたのには理由があります。トイレ問題は、感染症の拡大も引き起こしますし、水分を控えることにもつながります。仮設トイレで転んで、救急搬送された方も実際にいました。そういう状況が医療の逼迫を引き起こしていたのです。
感染症が拡大して、コロナやインフルエンザの方が大勢、救急外来に押しかけると、本当に救急外来で行うべき緊急性の高い医療が滞っていきます。入院しなきゃいけない人も、もちろん増えていきます。
こんな状況が続けば、最後は災害関連死が増加します。整備されたトイレがきちんと機能していくことが、災害関連死を防ぐために、絶対に必要で、そのことについて、少しでもみんなに何か届けられるのではないかということで、排尿ケアチームが1月15日から動き始めました。
排尿ケアチームの活動
川村さん
実際は、そんなに特別なことができたわけではないのですが、少しご紹介します。
一つ目が相談業務。とにかく避難所に行って、「トイレで困っていることはなんですか?何が大変ですか?」というのを聞いてまとめました。
実際に私たちの手で改善することまではできませんでしたが、「テントを設置してもう少しプライバシーに配慮できないか」「高いところにもう少し手すりを増やせないか」というような改善に対する内容を、避難所を運営されている方に伝えるまでのことは、なんとかできたのかなと思っています。
次は、たくさん支援の物資が届き、置いてあっても、ご高齢の方は使うことができないので、使用方法を紹介しました。1つずつ、その人に適したものを持っていって「こんな風に使いますよ、使ってみませんか?」と案内して、ただ積んであるだけの物品を少しずつ使ってもらえるように工夫しました。
そして、一番相談の多かったのが、尿漏れに関することでした。家では気にならないことも、避難所は大勢の方、それも知らない誰かと共に生活する場所なので、「自分が臭いを発しているのではないか」「漏らしてしまったことを知られてしまうんじゃないか」という、その人の生活の質や尊厳に関わる問題なのです。そこで、排尿チームのリハビリ担当者にリーダーシップを取ってもらって、尿漏れ体操を避難所で行いました。集まりやすい場所、集まりやすい時間帯も選びながら定期的に回数を重ねていきました。
そして、活動を行っていく中で、実際に災害が起こってしまってからトイレ問題に向き合っても、解決は難しいと感じました。今後に何か活かせないかということで、アンケートを取ったり、学校で簡易トイレの使い方を指導したりということも、昨年の5月ぐらいから始めました。
私たちもそうだったんですけど、やったことがないことはいざという時にできないんです。だから経験、体験することが絶対に必要だなということで、院内でも毎年1回、職員を対象に行っている排尿の勉強会で、今年は「簡易トイレを使ってみましょう」というテーマにして、8月に行いました。やはり使わないと忘れてしまうので、1年に1回、今後も続けていけたらいいなと思っています。
ここまでが、当院での被災状況と排尿ケアチームの活動経過になります。
活動を通じて感じたこと
川村さん
まとめになるんですけど、やはり排尿の問題は、災害関連死とは切っても切り離せないので、トイレ問題の解決が、災害関連死の予防に直結しているということが1つ。
もう1つは、人によって被災した状況も、避難している場所も違う。だけど、人がそこにいる限り、絶対トイレは必要になってくることなので、一人ひとりの生活の質への支援を絶え間なく、していかなきゃいけない。私自身も今回の災害後の活動を通じて勉強させていただきました。
本当にいつどこで起こるかわからない災害時において、健康維持、合併症の予防や心理的な安心、避難所の衛生環境の整備、医療と地域の連携強化といった項目をきちんとできていなかったら、災害関連死は増えていってしまうだろうなというのが、この1年半で私が感じたことです。
トイレや物資だけが届いてもダメなんです。その地域やその避難所にどういう人がどのくらい居るのかを知り、その人達が安心して使えるトイレやトイレを含めた環境、そのトイレを管理・調整するマンパワーとコーディネーター。こういったことが絶対に必要なのだと思いました。
そのマンパワーとなりうる人を地域ごとに育成していくこともそうだし、災害時のトイレに特化した災害支援チームも絶対必要だなということで、これからの活動につなげていきたいと思っています。
川村さんの発災当初の状況
聞き手
川村さんの、地震発生当時の状況を教えてください。
川村さん
私は能登町の実家に帰省していたんです。震源の珠洲にも近くて、海のすぐそばだったので、津波警報もありました。私も避難所には行ったんですけど、入れないような状況で、トイレはみんな外でしていたんです。なかなかきちんと穴を掘れるわけでもなく、木の影になっていた一角で、皆さんしていたんですけど、池みたいに尿が溜まる状態でした。発災直後はもう皆さんそうするしかなかったんですけど、これがそのまま続くのはどうかなと思いました。
聞き手
感染症の問題もありますからね。それからしばらくして志賀町に戻ってこられたんですか。
川村さん
道が通行できることを確認して、こちらに戻ってきました。
聞き手
病院とは、いつぐらいから安否確認ができるようになりましたか。
川村さん
1月1日は連絡が取れませんでした。津波警報が出る直前に、1回だけ電話が通じたんですけど、その後通じなくなってしまいました。その後、充電がなくなってしまったので、電話で院内の職員と連絡が取れたのは3日か4日のことです。
発災当時の富来病院の状況
聞き手
介護医療院にいる方も、身動きが取れない方なのでしょうか。
川村さん
そうですね。介護医療院というのは、高齢者施設のうちの1つで、医療依存度の高い要介護者さんが入所されています。胃ろうと言われる、自分で食事のできない方に、医療者によって栄養を注入する手技が必要だとか、排尿面でも尿バルーンというもので尿を出してあげなきゃいけないとか、そういう医療の処置が必要な方の割合が高いので、自分で歩ける人は多くありません。
聞き手
その方たちも救急車で別の病院に移したのですか。
川村さん
そうです。
聞き手
資料に「地域住民41名の方が避難」と書かれていますけど、こちらの方たちは、何か怪我をされた方ですか。
川村さん
怪我はなかったですけど、津波警報が出て、3階まである建物が富来病院だけなので、こちらに避難されてきました。
警報が解除されて、それぞれの避難所運営が進められましたので、避難所の方に移動してもらいました。
聞き手
水について、水分補給も大変だったのではないですか。
川村さん
私は水を飲みたいっていう感覚は1月3、4日までなかったです。飲みたいと思いましたか。
笠原さん
なかったですね。水っていうところに行きつかなかったです。
川村さん
喉が乾いた、水を飲みたいという感覚がなくて、もう本当にトイレをどうしようみたいな感じです。これが8月だったら喉も渇いたかもしれないけれど。寒かったですし、そこまで水を飲みたいとは思わなかったですね。
笠原さん
食料も然りです。そんなに食べたいと思わなかったです。
川村さん
お腹が減ったとも思わなかったですね。でも、物資が届けられたタイミングで、「食べないとダメ」ってみんなに言われながら、自分でもそう言い聞かせながら、なんとなく口に入れていました。
聞き手
救急隊からの電話が一部不通というのはどういうことですか。
川村さん
普段は、救急隊から直接看護師が持っている電話に連絡が入って、受け入れのやりとりをするんですけど、その電話がほとんど通信不能でした。
通常ですと「こういう方がこういう場所から向かいます、受け入れは大丈夫ですか?」という確認があって、救急外来でその患者さんを待つんですけど、救急隊からの電話が通じないので、いつ誰がどんな形で運ばれるか分からないという状況だったんです。
運ばれた中には、地震とは多分関係なく心肺停止になった方もいたんですけど、その方が救急隊に連れてこられたタイミングで大津波警報が出ました。今すぐその方を処置するよりも、院内にいる患者さんの一時避難をしなければならないということで、3階までの患者さんの誘導を優先して、その方の処置には当たっていません。
聞き手
それは、トリアージ(編注:災害時、多数の患者が発生した場合、容態などを判断して、治療の優先順位を決めること)になるのでしょうか。
川村さん
そうですね。緊急的なトリアージです。うちの病院でしっかりとしたトリアージができたのは1月4日頃からです。
院内の被害状況
聞き手
天井や壁も崩落されていますけど、直すのにかなり時間がかかったのではないですか。
笠原さん
1年かかりました。資料の写真は2階の病棟の被害なんですけれども、2階の病棟が復旧したのが今年の4月のことです。
聞き手
地震が発生し、しばらく患者さんを別の病院に移して活動をされたということですけど、復旧までの間はどのような状況だったのですか。
川村さん
外来業務に関しては1月4日から順次再開して、1月16日に10床だけ入院を再開、1月31日にプレハブでさらに病床数を増やして、6月までしばらくそのままプレハブでした。
聞き手
地震が起きた後も、少しずつ使える部分は使っていきながら運用されてきたと。でないと、病気や状態が悪くなった方を受け入れる体制ができないですしね。
川村さん
最初にお話したように、本当にこの地域の患者さんに必要な医療に寄り添うことが富来病院の在り方ですので、震災で避難所や仮設住宅での活動をせざるを得ない事もありましたが、本来ならば富来病院で住民の方が受けられる医療を優先的に再開させていくことが第1目標になっていました。
手術室の被害が結構酷くて、手術の再開も、中の工事が全部終わらないといけないので、なかなか難しかったかなと思います。
笠原さん
手術室は蛍光灯が全部落ちているんです。オペ中じゃなくて良かったなと思います。
聞き手
やっぱりここまで荒れていると、余震が怖くて、手術もできないということですか。
川村さん
それよりも、手術に必要な配管装置も全部使えませんし、全部ホコリがかかってしまってクリーン度も保たれていない、酸素の供給もできないとか、いろんなところが問題になります。
あるべき設備を改修・工事するのが1段階、中の物品を戻すのにもう1段階、さらにそこに環境メンテナンスと言って、専門の事業者に入ってもらって、手術室の中のクリーン度が保たれているかなどの検査で全部合格して初めて手術業務ができる。
でも実際すごく不安でした。再開最初の手術は本当に怖かったです。いまだに「もし今日手術を始めた後にまた地震になったらどうしよう」って思います。この酷かった手術室の映像がやっぱりずっと頭に残っていますね。

聞き手
この病院から別の病院へ患者さんたちを避難させるにあたって、道路の状況の確認が大変だったとおっしゃっていましたけど、確認はどのようにされていたのでしょうか。
笠原さん
DMATさんが連絡し合って確認されていました。資料にあった救急車28台も全国各地から来ています。
道路事情としては、七尾や奥能登はもっとひどかったじゃないですか。本来は転院も奥能登の方からなのかもしれないんですけど、行けなかったということもあると思います。
川村さん
あの時にもっと奥能登にスムーズに救急車両が行けていたら、あの搬送はあんなにスムーズにできなかったかなと思います。緊急車両が奥能登に入れずにいたタイミングだったので、使わせてもらえたのかなと。
聞き手
志賀町のほかの病院も同じようなことになっていたんでしょうか。
笠原さん
志賀町には、有床病院、入院できる施設がここしかないんですよ。あとはクリニックとかです。介護医療院を持っておられるとこはあったかもしれませんけども。
川村さん
搬送については、DMATの指揮のもと救急隊との協働で行いました。富来病院の職員は、患者さんの家族に「どこそこに搬送が決まりました。何月何日の何時頃到着を目標に、何時頃こちらから出発します」といった連絡を行なうところを担っていました。
ただ、家族の方もこっちの人だったら、どこかに避難されていたり、携帯もつながらなかったりで、なかなか連絡がつかなくて、それも大変な問題の1つでしたね。
聞き手
ご家族に転院の連絡をするために、直接避難所まで行くこともあったんですか。
川村さん
そこまではしなかったですかね。それをし始めると収集がつかなくなってしまうとも思いますし、そこまでの人手はありませんでした。
被災後の川村さんの状況
聞き手
以前、領家コミュニティセンターでお話を聞いた際に、非番の病院の看護師さんがいてくれて、すごく助かったということだったんですけど、そういうお話は聞いていたりしますか?
笠原さん
それはまさに川村さんのことです。
川村さん
最初は富来中学校に避難していて、学校を再開しなきゃいけないということで、コミュニティセンターに移動しました。学校のときは生活リズムや年齢で教室ごとに分けられたから良かったんですけど、コミュニティセンターだと、広間を全員で共有する形になってしまったので、区分けができたらいいなと思いました。
中学校の時は、一つの教室を、子どものいる何世帯かで使うと、周りに過剰な気を使わずに子どもを遊ばせられます。子供が1人で、他はみんなご高齢の方だったら、多分その子のストレスも高いと思いますし。
避難所として考えるならですけど、やっぱり区切って似たような背景、似たような生活状況の人で仕切れるのは、学校のいいところです。
ただ、学校には学校という機能があるので、早期の再開に向けて、領家コミュニティセンターに1日も早く移動するのは大事なことでしたね。
県内病院の協力について
川村さん
実は、最初に私が話した内容は、南加賀排尿セミナーでお話した内容です。小松市民病院は、全国的にも排尿ケアの先駆的な病院で、泌尿器科医非常勤の富来病院で、なかなか担いきれない所を相談に乗って頂きながら、いろいろ情報をもらったり、合同カンファレンスをさせてもらったり、元々そういう関係性があったので、小松市民病院の方がDMATの一員として、この救急車に乗ってきてくれた時は本当にほっとしました。小松の救急車は、利常号とか全部名前がついているんです。
笠原さん
七尾からも応援が来てくれました。発災して、1発目のDMATで入ってくれたのが能登総合病院の先生だったんです。それを引き継いだのが小松の先生です。
川村さん
小松からいったんDMATの本部のあった能登総合病院へ行き、そこから当院へ来てくれました。能登総合病院の七尾も同じく被災している状況ですけど、能登地区の医療を担わないといけない立場なので能登総合病院さんも大変だったと思います。
笠原さん
能登総合病院を拠点病院として、DMATの本部として色々されていました。
被災後の院内の体制について
聞き手
さっき廊下を通ったときも、天井のシミが結構すごかったのですが、どのくらい浸水していたんですか。
川村さん
3階から順番に1階まで、全部浸水しています。
聞き手
地震で倒れた物も足元にあって、歩きにくかったのではないですか。
川村さん
物はまだ目に見えるんですけど、感染症の原因になりうる細菌やウイルスは目に見えないから本当に大変でした。
聞き手
使えなくなった場所もあって、大変だったのではないですか。
笠原さん
病室にいた患者さんを全て2階の食堂に集約させました。
川村さん
1か所にベッドを出しました。出すまでも大変だったんです。
聞き手
暖房設備がダメになったということですけど、ガスストーブなどは使えなかったんですか。
川村さん
何台かはあったけど、油がなくて。灯油を入れて回るスタッフも確保が難しかったです。
笠原さん
2日の午後くらいかな。ストーブなどの物資が届きだして、ガソリンスタンドでも、給油車が動き出して補給していただいたことはありましたね。
トイレ問題の解決に向けて
川村さん
いろんなことを言い出せばキリがないんですけど、排尿やトイレのことは、私も今後伝えていかなきゃいけないって強く思っています。トイレ問題をなんとかしなかったら、また被災地で同じ問題に直面します。
この地震をきっかけに過去のトイレ問題のいろんなデータや資料を見ました。熊本の時も、東日本の時も、もっと遡って阪神大震災の時も、今回私が思ったのと同じようなことがちゃんとまとめられて、これが大事だよ、これをしなきゃいけないよって書かれているのに、やっぱり解決できていないとすごく思いました。
1個でも能登地震の時にクリアできたことがないかという思いで過去のものを見ていくと、仮設トイレについては、割と、昔に比べたら整備はされているんじゃないかと思います。ただ、それを使える状況が整うのかなというと、私が知っている富来領家町とか、富来で一番たくさんの人数が避難した活性化センターの避難所の情報も確認してみたんですけど、そんなに進んでいない。
災害の度に、24時間切っても切り離せない、このトイレの問題が、なぜこんなに解決されないのか、なんとかならないかなという思いです。能登でもこうだったんですよということは、いろんな形で伝えていかないと、次の災害が起こった時に、また同じように被災された人たちがトイレ問題にぶつかって、トイレで悩み、トイレで苦しんで、災害関連死につながってしまう。繰り返しになってしまうけれども、絶対に物があるだけじゃダメなんです。
一度汚れてしまったトイレでしか自分が用を足せなかったら、そこを掃除してきれいにして、自分がきれいに使って次につなげられる人って多分誰もいないんです。汚れたトイレは汚れた使い方でしか使われないんです。そうなったら、震災が起こった直後に、正しい使い方でトイレを使えないと、どこのトイレも汚れた状況になるんです。
なので、平常時に、被災した時、何か起こった時、水が流れなくなった時に、私たちはどうやって排泄をしたらいいか、もっとみんなが理解できるように、避難訓練の中にもトイレのことを入れてもいいと私は思っています。そうした日々の訓練も絶対必要です。もうひとつは、災害が起こった時に、排泄やトイレに特化した支援チームが介入できるようにすること。そして、地域の人たちとコーディネートして、掃除するマンパワーを確保して、掃除する回数を増やすこと。支援として物を配るだけじゃなくて、物を管理できるマンパワー、もしくはそれをサポートする災害チームの普及がされていったらいいなと思います。
聞き手
トイレのことは、食料などと比べて、あまり触れたくないという意識もあるのかなと思いますけど、おっしゃっていただいた問題はすごく重大な問題ですし、今後改善していけるようになったらいいなと思います。
川村さん
地震や災害じゃなくても、トイレの問題って高齢になればなるほど出てくるんです。今回の能登地震では、今までの被災地に比べて平均年齢も多分高かったというのもあって、普段から排尿やおしっこのトラブル、悩みを抱えている人たちが被災したことで、避難所でトイレの問題にぶつかった。
問題が重なっているところが特徴の1つでもあるので、今後やっぱり能登からもしくは石川県からの発信で、災害時のトイレのコーディネートがちゃんとできるようなシステムを作っていけたらいいなと思います。
聞き手
何か、具体的にどうなったらいいなということはありますか。
川村さん
1つは、各社、各校、各家庭できちんと、水が使えなかったり、何かが起こったりした時にトイレができるよう準備する。使えるように練習する。そして、それを確認し合えることです。
トイレに付いている便座クリーナーって、私たちが学生の時はどこにもなかったんです。でも今は当たり前になって、使いたいと思う人は大体使えるじゃないですか。それって「こんな風に使います」っていうイラストが一緒に貼ってあって、だんだんみんな違和感なく使えるようになったんじゃないかなと。温水洗浄便座も同じで、多分そういう場所がたくさん増えて、使う機会ができて、使った経験があるから当たり前になった。だからそれと同じことをしていけば、みんな当たり前に使えるようになるのかなと思っています。実際に富来病院のトイレを見てみてください。
(トイレへ移動)

聞き手
簡易トイレと、使い方のマニュアルもありますね。これは分かりやすい。非常時に来て、これを見て、そのままできると。
川村さん
これをほとんどの洋式トイレに準備してあるので、外来に来た人がトイレに入って、なんとなく「病院に行ったらトイレにこんなものが置いてあった」というところから普及できたらいいなと思っています。
10セットずつ各トイレに設置してあり、予備のセットがすぐ使えるように配置してあります。介助が必要な場合の、手袋や予備の大きい袋も入れてあるので、こういうものも各家庭に帰って、トイレに置いてもらいたいです。
当院では分かりやすくするために、どこに何が何個、備蓄してあるのかを書いた病院非常時トイレマップを作っています。そして、訓練と周知。この3つが揃っていれば、何かあった時にみんな対応できるようになります。でもね、やっぱり忘れるんです。だから繰り返し、毎年やっていけたらいいなと思っています。皆さんもぜひやってください。
例えば、小学校でやったことがある子は、中学校に行ったら「うちの学校では、こんな風にしてあった」と、人に話せるようになる。それがだんだん広がってくると、便座クリーナーと一緒で、日本中それが当たり前になる。こんな小さな波紋だけど、みんなにどんどんその波が波及していけばいいと思います。
いま、実際に被災した富来の子たちは防災意識が高いです。自分が困ったから。そういう子たちが学びを深めていって、自分たちが大人になるまでの間に、そういうこともきちっとしてくれる子が出てきたらいいなと思います。
院内トイレマップと簡易トイレ
(トイレから移動)
川村さん
各部署にも設置はしてあるんですけど、これが院内トイレマップです。赤いところは停電になると使えない、黄色いところは停電になっても手動で使えるという形で、何かあった時のトイレのことを全部この1枚に分かるようにしてあります。
備蓄は緑色の場所で示しつつ、どこに何があるかっていうのは文字にしてあります。もしこれがなくなりそうになった時は、院内の防災備蓄倉庫にあるので、事務局に声かけて補充してもらって2、3日凌いでいれば、きっと他から支援物資としてちゃんと届くのではないかということになっています。
簡易トイレ、ラップポンっていうものをせっかくなので紹介します。

(別室へ移動)
川村さん
もしもの時にはパーテーションで囲い、非常時のトイレとして機能できるように、パーテーションも置いてあります。これの難点は重たいことですね。
もし普通のトイレだったら、便器に袋をかけて、凝固剤を入れてということをしなきゃいけないですが、これは電動でセットされています。凝固剤を入れるひと手間が平常のトイレに比べて増えるだけです。処理が終わると袋が熱で圧着されて出てくるので、それを捨てます。
これが、結構破れなくて、何が良いかと言ったら、ここにもしノロウイルスなどの人がいたとして、仮に手袋がなかったとしても、これを触ってもウイルスに触れる必要がないところです。普通の袋だと、縛ったり外したりする時に、どうしてもウイルスとか細菌という、目に見えないものに、触れてしまうリスクがあるし、医療従事者なら、感染対策をきちんとして処理できるかもしれないけれど、避難所で関わる方全てができるかっていうと、なかなか難しいと思います。なので、やっぱりこういうものはどんどん災害時に活用するべきですね。
ただ、これが置いてあっても、このカートリッジをセットして使うということのできる人が、地震のとき、富来病院にいなかった。2、3日目に届いたんです。届いて、物はあったし、落ち着いてやれば多分使えたんです。でも、患者さんも搬送しなければならない、急患でも来る、水の処理もしないといけない中で、今までやったことがない中でこのラップポンを運用することはできなかった。
それで、落ち着いてからあらためて備蓄などを見返したときに、やっぱりこれは良いものだし、使えるようにしておきたいとなって、改めてこの間の8月の勉強会のときに、もう1回職員で共有して、使えるようにしようということになりました。
排尿ケア委員会の会議で、便座のところにラップポンのセットの仕方とかの動画をQRコードにして貼っておきましょうということになりました。それもやって、非常時にはパッと使えるようにしたいなと思っています。

聞き手
他の避難所でも「ラップポンがあったからトイレは大丈夫だった」という話も聞きました。
川村さん
原発から近い、熊野や福浦は、防災センターにラップポンが置いてありますね。なので、避難所にあるべきものはもう配置されているから、あとはスタッフが使えること、そしてスタッフじゃなくても、こういうものがあるはずだよって声を出して動かせることが大事だなって思います。
聞き手
最初から蓋のところにQRコードで貼ってくれたらいいなと思ってしまいました。
川村さん
確かにそうだよね。「実際に能登でこうやって使った時に、こういう理由でうまく運用ができませんでした。使い方やセットの仕方をもう少し分かるようにしてほしい」というのを、私たちから企業さんにもフィードバックできたらと思うんです。本当に急場で使った立場からすると、手ですぐ切れる素材で包装してほしいとか、多分いろんな声が出てくると思いますし、それは実際に緊急時に使った私たちしかできないことですよね。
勉強会で、職員みんなに「このペットボトルでおしっこをした事にしてください」と言って、水を流して、袋も縛ってもらいました。やってみて分かったこともあって、こんな小さい凝固剤1個で、意外と1Lは軽く固まるんですよ。家だったら2、3回自分がしてから縛れば、凝固剤の数もそんなにいらないとか、子どもだったら親とするときに一緒にして縛ればいいという声が、実際やってみると出てきたので、何かしらでこういう体験ができることは大事だなと思いましたね。
聞き手
実際起きてからでは遅いですよね。
川村さん
やっぱり人間は、知らないものには手を出さないし、使ったことがないものは使いにくいかなと思うので、やったことがあるというのがすごく重要です。
お子さんを起点にできたらいいなと思っていて、子どもって家で喋ってくれるんですね。
やっぱり子どもが言うことに大人は耳を傾ける。可愛い我が子が、孫が言うことだから。それで、子どもがやっていることは大人もやってみようかなと思うから、やっぱりこれからの若い人たちがこういうことを発信していったほうが、きっと広まるスピードも早いんじゃないかなって思います。皆さんにも期待しています。
聞き手
ありがとうございます。どういう仕組みなのか、設置されているのを見ることはできますか。
川村さん
使った後、袋が外から中に引き込まれていって圧着されて、その真ん中をカットするんですね。
聞き手
子供のおむつにもこんな原理のものがありますよね。
川村さん
キャンパーの人が、トイレのないところでも車中泊ができるように、簡易式の小型のものを個人で購入して車に積んでいる人もいると聞きました。
聞き手
破ろうと思わない限り破れないですね。
川村さん
破れにくい素材だから、「1番こうする、2番凝固剤を入れる、それで座ったらここを押す」って、写真を撮って番号も振ってあげないと、高齢者はなかなか運用できないので、そういうのを助けてあげるマンパワーが必要だなと思います。
聞き手
カートリッジワンロールで大体何回くらい使えるんですか。
川村さん
このタイプだと60回かな。
聞き手
これがあったらだいぶ違いますよね。
川村さん
違いますね。これを何ロールも常備しておかないと。だからこれを富来病院の備蓄品として置いておきつつ、「何か困っているものはないですか」って言われた時に、「ラップポンのカートリッジをください」って言えるようにしておかないと。使ったことがないと言えませんからね。
それと、ラップポンを知っていることも重要ですが、もっと大事なのは、ラップポンがなかったらどうすればいいか、いつでもどこでもできる方法を知っておくことです。凝固剤がなかったら、新聞紙でも、ペットシーツでも、お子さんのおむつでもいいし、おじいちゃんおばあちゃんの尿取りパッドでもいいから、何かできる方法を知っておくことです。
皆さんもぜひ文化祭などでトイレブースを出してください。今度は私が逆に取材に行って、記録に残します。そんな形で広がって、それを見たどこかの学校が、また文化祭でしてくれたらいいなと思います。それを知って伝えてくれる人がいるということが、私たちのモチベーションになっていきます。
伝える
- 体験を語る
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

