体験を語る
- 消防
消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月8日 |
地震発生当初
聞き手
被災当時の状況について教えてください。
竹原さん
地震が発生したとき、私は妻の実家にいて、すぐに消防署へ向かいました。そのときちょうど、朝市で火災が発生しているという連絡が入りました。署内はすでに停電しており、多くの住民が避難してきている状況で、真っ暗な中、誰がどこにいるのかも把握できず混乱した状態にありました。集まった職員も非常に少なく、私を含む4人だけで現場対応に出動することになりました。
しかし、非常時の救助で最も重要な「救助工作車」が地震の揺れで消防署の前で横転してしまっていました。その車両が、隣にあった火災対応用の水を積んだ車両に寄りかかるように倒れておりどちらも動かせなかったことは衝撃的でした。
出動した消防車はたった2台、人手も車両も全く余裕がない中で消火していました。また、火を消すために必要な水利を確保することができませんでした。市内全域で消火栓が使えなくなっており、防火水槽も、倒壊家屋で塞がれていたり、上に建物が倒れてアクセスすらできなかった。最終的に川から水を吸い上げて対応するしかなかったのですが、地震による隆起で水位が下がっており、水も濁っていて、最初の方はヘドロのような水しか出ないという、これまでにない過酷な環境でした。さらに海側の水利を確保しようにも、大津波警報が発令中で、私たちが活動していたエリアも、津波浸水想定区域内には若干かかりそうな際どい場所で、消火活動を行っていました。
聞き手
通信などが寸断された時に、最初にどのような対応をされていたんでしょうか。
竹原さん
地震の直後は、携帯電話の通信がキャリアによってまちまちで、つながるものとつながらないものがありました。また、消防の無線もまったく機能していない状態でした。
最初に朝市の火災に気づいたのは、救助要請を受けて現場に向かっていたときでした。向かう途中に火災を確認し、消防車に乗っていた隊員の一人の携帯がたまたまつながったので、それで署長に「朝市で火災が発生している」と連絡したのが最初の対応でした。ただし、119番通報はなかったんです。電話回線も非常に混雑していて、司令センターが火災を正式に把握したのは、かなり後になってからでした。
つまり、現場が消火活動を始めていても、通信網の不具合で他の部隊には情報が行き渡っていなかったという状況でした。道路の状況についても、現場に行ってみないと通れるかどうかわからないため、一度行って引き返して別の道から向かう、というような対応を繰り返していました。特に1月2日の昼頃からは、火災がひと段落したあとに、活動範囲を確保するために、1台の車で道路の通行可能状況を巡回確認することも行いました。
ただ、その道路情報も他と十分に共有される仕組みがなかったので、刻一刻と変わる状況を全体で把握するのは難しかったのが正直なところです。そして、消防の大規模災害時の基本方針として、「まずは火災対応を最優先する」ことが明確に決められています。警察や自衛隊は消火機能を持っていませんから、火災を制御できるのは消防だけなんです。そのため、多くの救助要請があっても、まずは火災への対応を優先することが原則となっていました。
消火活動・救助活動
聞き手
倒壊家屋や閉じ込められた住民の救助はどのように進められましたか。
竹原さん
最初に、朝市の火災現場に向かう途中で7階建ての五島屋ビルの倒壊現場に出くわしました。そこで2人の女性が下敷きになっているとのことで、ビルの関係者の方が道路に出て消防車を止めて「助けてほしい」と叫んでいたんです。ですがそのときは、火災現場での消火を最優先するという原則もあり、持っていた資機材では十分な救助活動が難しいと判断。罵声も浴びせられ心苦しかったですが、お断りして火災現場に向かいました。
次に別の倒壊家屋でも下敷きになっている高齢男性を発見しました。そこでは力を合わせれば救出可能だと判断し、車を止めて救助にあたりました。
さらにもう1件、救助要請の声がありました。この時、私は他の3人の隊員に先に火災現場へ向かってもらい、自分だけが現場に残ってもう一人の下敷きになっていた男性を救出しました。こうした現場判断は非常に難しく、火災最優先と頭では理解していても、目の前に助けを求める人がいると、そのまま通り過ぎるのは心情的に割り切れない部分があります。
聞き手
消火活動で特に困難だった点について教えてください。
竹原さん
火災が判明したのは17時半頃で、私は2台目の消防車に乗って現場に入りました。現場に着いた直後は、風向きが南側だったため、その方向への延焼を防ぐことに注力していました。しかし途中で風が急に海側へと変わり、朝市の本通り側へ火が回り始めたんです。どのタイミングで放水位置を切り替えるか、判断が非常に難しかったですし、倒壊した建物がホースの上に崩れ落ちてホースが破損するなど、何度もホースの再設置が必要になりました。
また、普段なら無線で「こちらはこの方向から放水する」といった連携が取れるはずなのですが、通信機器の不調でそれも叶わず、現場の所長が道路を大回りして移動しながら情報を伝え合うという、非常に非効率で困難な体制でした。そしてもう一つの心理的な大きな障壁は、大津波警報が発令されている中での消火活動だったことです。浸水想定区域のすぐ外側とはいえ、東日本大震災の記憶が頭をよぎり、誰もが「本当にここで活動して大丈夫なのか」と不安を抱えていたと思います。しかも、津波警報の切り替えがなかなかされず、Jアラートの警報音も度々鳴って、緊張感の高い中での作業となりました。
聞き手
救助の応援は当日中に次々と増えていったのでしょうか?
竹原さん
火災発生後の応援については、自分たちの消防署の職員が数台の車両で後から来たのと、地元の消防団の車両が少し来たくらいで、いわゆる「外部からの応援」はなかったですね。
私は最初の火災現場から2日の朝6時半ごろ撤退し、それまではずっと放水を続けていました。火が落ち着いてくると、今度は救助に回ってくれという指示があり、3人で次の救助現場へ向かうことになりました。
その時点では通信もままならず、無線も携帯も繋がらない状況でした。消防署に一度戻って救助先の指示を受けたのですが、電話対応に残っていた職員は1人だけでした。その職員がずっと電話を取り続け、停電で使えないパソコンの代わりに、救助に関する情報をホワイトボードに書いていました。ですが、ホワイトボードもすぐにいっぱいになり、途中からはA4の紙に手書きで書かれていました。コピーすることもできなかったので、自分のスマホで写真を撮って、私は「河井町」の通報リストから上から順に対応していくことにしました。スマホの充電も減っていたので、途中でなくならないか心配でしたね。
実際に、救助要請が多数あった現場に行くと誰もいない、ということが8割ほどありました。おそらく自力で脱出された方が多かったのだと思いますし、通報はその後にされたのかもしれません。情報を整理しきれなかった中で、回る順番を決めておけばスムーズに動けたのかな、とは思います。
倒壊家屋の中にいて、私たちの呼びかけに反応がないところは後回しで、基本的には声をかけて中の人から反応がある人だけを優先して搬送していましたね。中には、建物の下敷きになり亡くなられている方が目の前に見えている場面もありました。ただ、私たちはその場で死亡判定はできませんし、明らかに亡くなっていると考えられる方を後回しにせざるを得ませんでした。
ご家族からは「ここの下敷きになって、ここおるからなんとかもう死んどるかもしれんけど出してほしい」と頼まれるのですが、すぐに出せるような状況でもなかったんです。他にも救助を待っている人がたくさんいる中では、その場に時間を割けず、事情を説明して次の現場に向かうしかなかったのは、精神的にもかなり苦痛でした。
2日の午前中に住民2人を助け出せましたが、当時は輪島消防署の救急車が2台しか稼働できず、さらに搬送要員もいないため、自分たちで搬送するのも難しい状態でした。幸いにもどちらも軽傷だったので、一人は近くの避難所まで私たちが送り、もう一人の方は近隣の住民にお願いするという対応を取りました。
2日の午後には、県内の応援部隊が入ってきて、金沢市消防局の救急隊と合流しました。私は彼らと一緒に救急車に同乗し、現場案内を担当しました。途中、建物の中で下敷きになっていた方の救助にも関わり、その方は怪我が少しあったため、救急搬送しました。その日は夜までずっと救急車に同乗していましたね。
聞き手
消防での活動を続けていて、自宅に帰宅できたのはいつですか。
竹原さん
正確な日付は覚えていませんが、最初の72時間くらいは全員がずっと消防署に寝泊まりしていて、1月5日頃には一旦家に戻れたりはしてたのかな。それ以降は夜間の活動はしなかったので、そのタイミングに家で仮眠をしたり、荷物を取りに行くことが可能になりました。
でもちゃんとした休みがもらえたのは、自分の場合1月15日が最初でした。丸1日休めたのはそれが初めてで、それまではずっと詰めっぱなしでしたね。救助要請の電話も多く、救急の出動も頻発してました。さらに電気が復旧すると、今度は自動火災報知器が誤作動を起こして、夜中に出動することが増えました。
消防署内の様子
聞き手
消防署には、一般の避難者の方も受け入れていたのでしょうか。
竹原さん
私たちが現場から戻ったときには、もう使える部屋は全部埋まっていて、風除室のギリギリまで人が寝ていました。廊下にもずらっと人が寝ていたので、来た順に人が場所を取っていったのかなとは思います。1月の20日過ぎくらいまでは消防署には人がいて、その際、あらかじめ何日には出て行ってください、という要望を伝えて、徐々に退所してもらい、最終的には確か近隣の中学校だったかな、他の避難所へ移ってもらいました。
聞き手
隊員の方や避難者の食事はどうされていたのですか?
竹原さん
1日の夜は数本の水を隊員みんなで回しながら少しずつ飲んでいました。2日の夜、ワイプラザという商業施設のゲームセンターで働いていた方で避難してきた方が、景品としてストックされていたお菓子をカゴいっぱいに入れて消防署に届けてくれたんです。それを皆で少しずつ分け合って、400人ほどいた避難者にも配っていました。
私が被災直後に消防署へ行ったときには、すでに100人以上の一般の方々が中に避難していて、普段は関係者以外出入りができないような職員の事務室や個人の私物がある部屋にも人が入っていました。
2日の夜に少し仮眠を取ったほうがいいということで、仮眠室へ行くと、その場所も避難者が使っていたので、隊員は休む場所も布団もなかなか確保できない状況でした。
消防の制服やスニーカーなども知らない方に持って行かれてしまっていたり、会議室の椅子が外に持ち出され、交差点でヒッチハイクしている人が座っていたりと、何日間かは消防の椅子が外のいろんなところにポツポツと置かれてたような状況でしたね。
聞き手
避難所と化した消防署での問題等はありましたか?
竹原さん
避難所になってしまったせいで、トイレ環境が深刻な問題になっていました。普段のトイレは当然使えなくなり、救急車とかで使った毛布や隊員が使ったものを洗った後に干す際に使う乾燥室に簡易トイレ用のポップアップテントの中に簡易トイレのラップポン1台だけ設置しましたが、400人の避難者がいたので常に大行列でした。
我々も現場に出る前にトイレに行きたいけど、割り込める状況でもなかったので、長蛇の列に並ぶしかありませんでした。その上、簡易トイレの使用に失敗される高齢の方もいて、汚れた際の掃除や処理もすべて消防隊員が対応していました。そんな中でも、若手職員たちが自発的に率先して、清掃などの避難所内業務をしてくれたことは、本当に頼もしかったです。経験が浅く現場に出るのが難しい若い隊員が、別の形でしっかり役割を果たしてくれたという点では、組織として良い連携が取れていたと思います。
また、避難者の中にも、「何か手伝いますよ」と言ってくれる方が何人か出てきて、一部協力していただいた場面もありましたが、やはり汚物の処理など精神的にも負担の大きい作業は、消防が担わざるを得ない状況でした。
聞き手
避難者の中には、ご自宅から物資を持ち込まれた方もいらっしゃいましたか?
竹原さん
一部、だるまストーブを廊下で使っていた方がいて、上で餅を焼いたりしていたので、そういうのは持ち込まれたのかもしれません。正月というタイミングも関係していたのかなと。ただ、いわゆる炊き出しや、味噌汁を作るような活動は一切なかったです。皆で協力して何かをするという雰囲気ではありませんでした。
消防署内にも、非常食や水が一定数確保されていましたが、我々が現場から帰った時点では全部なくなっていました。
聞き手
消防署のバックアップ電源について教えてください。発電設備はどうなっていましたか?
竹原さん
消防署のバックアップ電源はディーゼル発電なんですが、使用ができませんでした。3階に自家発電機が設置されていて、燃料は外の地下タンクにあるんですが、今回の地震でその配管がやられてしまっていました。もともとタンク内にあった分は使えたんですが、それが尽きるともう使えなくなりました。
ただ、配管が損傷していると分かってからは、自分たちで下から燃料を運んで、直接発電機に給油することで非常用電源を確保していました。
聞き手
停電中はパソコンやコピー機も使えなかったとのことですが、最低限必要な電源設備とはどのようなものになりますか?
竹原さん
難しいですね。今回は指令センターの指令台も完全に電源喪失していました。スマホ10台分の充電、パソコン、照明といった基本的な設備が使える電源が最低限必要だという議論はしていましたが、実際にはそれ以上に電力が必要でした。
消防署では指令システム自体が非常用電源で動く設計にはなっていましたが、配管の損傷でそれも使えなくなっていました。
燃料の備蓄や、燃料電池の導入などについても、消防署には「油脂庫」と呼ばれる、ガソリンや軽油などを備蓄する専用の場所があります。バックアップ電源は3階にしっかり固定して設置されていて、本体の被害はなかったのですが、建物に引き込む配管が地下タンクから建物の庁舎側までで破断していました。
建物へ引き込まれる最初の配管がもう全部壊れていました。
聞き手
高齢者など配慮が必要な方への対応はどうされていましたか?
竹原さん
高齢の方も多く避難されていて、要介護認定のある方がいたかどうかまではわかりませんが、途中から避難者の中で率先して動いてくれる方が出てきて、トイレの使い方を前で説明したりしてくれていました。それで汚れの頻度は減っていきましたね。消防として特別な対応をしていたわけではありません。みなさん1階2階の両方で生活されていましたが、階段の移動が難しい方は1階の隊員の仮眠室にいたようにも見えました。
他機関との連携
聞き手
自衛隊や警察、DMAT、市役所との情報共有はどのように行われていましたか。
竹原さん
途中からは消防もリエゾンを1名、災害対策本部に派遣して、そこから得た情報を消防署に共有していました。ただ、救助活動で重要な最初の72時間の間に、自衛隊・警察・消防で「どこを誰が担当するか」を明確に決めて動くのは、正直難しかったです。
自衛隊は自衛隊で全地区をローラー的に回っていて、持っている情報も地図もそれぞれ異なっていました。もし共通の地図をもとに「ここは自衛隊」「ここは消防」とマッピングできる仕組みがあれば理想的だったと思いますが、今回はそれができていませんでした。
初動だけでなく、その後も連携はなかなか難しかったと思います。それまでは自衛隊・警察・消防の三機関が一堂に会して調整する場はほとんどありませんでした。ただ、地震の経験を踏まえて、後の同年9月の豪雨災害では、市役所が主導して合同で毎日「合同会議」を開き、情報共有や役割分担を話し合うようになりました。
聞き手
当時の消防団との協力体制はどうでしたか?
竹原さん
近隣の消防団については、署長から団長に直接電話で出動を依頼しました。団長は当時、高台に避難していたそうですが、連絡を受けてすぐに降りてきて、消防車を持って活動を始めてくれました。現場では消防署が火災建物の近くで放水し、消防団には河井小学校のプールから朝市まで水を持ってくる中継という役割を担ってもらいました。消防団の皆さんの協力がなければ、あの規模の消火活動は成り立たなかったと思います。
聞き手
広域的な支援、例えば全国からの応援や総合応援隊は、いつ来ましたか?
竹原さん
最初に応援が来たのは1月2日の夜ぐらいですね。3日にはもう一緒に活動していました。やっぱり火災の鎮火ってすごく時間がかかるので、広域的な応援は本当にありがたかったです。火災は1月2日の朝の6時半ぐらいでおおむね鎮圧しましたが、最終的にくすぶった火の鎮火に関しては、非常に助かりました。ただ、最初に朝市の火災を消火していたときは、どこからの支援も受けられなかったので、本当に大変でしたね。
聞き手
応援に入った緊急消防援助隊とは役割分担などありましたか?
竹原さん
ありましたね。最初に来た救助隊の方々は、夜間の活動はしないという方針でした。そのため、日中は同じように活動して、応援隊の補助で一緒に現場を回って、18時以降は我々消防だけで活動していたので、その時はきつかったですね。夜間の出動も多く、寝る時間も十分に取れない。そんな状況がずっと続いていました。
緊急消防援助隊も3日から5日のサイクルで入れ替わっていくのですが、その後に入ってきた第2陣の援助隊からは「夜間も対応する」と方針が変わったので、少しだけ楽になりました。
長期化する避難生活
聞き手
時間が経つにつれて、疲労や精神面に対する対応はどうされていましたか?
竹原さん
明確に上の人が、誰が出勤するかについて決める感じではなくて、結構若い人たちが中心的になって、「あいつ結構今疲れ切ってきて大変そうやし、あいつは今日は出さずに、うちらが代わりにその分入って寝かせてあげよう」といった配慮をして動いていましたね。自然とそういう空気ができていて良かったと思います。でも、やっぱり疲労はどんどん溜まっていきましたね。それに加えて、自分自身も被災しているので、生活の再建の課題もありました。
私自身の話で言えば、妻が妊娠8ヶ月で、予定していた出産先が断水で使えなくなり、急いで新しい病院や一時的な住まいを探す必要がありました。今後の生活について決断することも多い中、休みも十分になかったのは、かなりのストレスでしたね。私の家自体は一部損壊で住めたんですけど、断水が3月末まで続いたので、2月頭にはアパートを借りて、妻と子ども、義母は金沢で暮らしていました。子どもの幼稚園も金沢で探しましたね。自分はここで仕事があるので、3ヶ月くらいは金沢と輪島の二拠点生活をゴールデンウィークまで続けていましたね。
聞き手
職員の中で、離職された方もいたのでしょうか?
竹原さん
いました。1月の時点ではいませんでしたが、3月に入る頃には「辞める」と決めた方も出てきて、3月末で辞めた職員も何人かいます。お子さんの学校や生活の再建が難しいという理由が多かったですね。今も、消防署に残った職員で、連休のある時は金沢に移住したご家族のもとへ通っている方もいます。
聞き手
一般避難所での感染症対策などはありましたか?
竹原さん
鵠巣小学校はすごくいい例でした。被災した中に東日本大震災の経験者の方がいたんですよ。その方が初期に「避難所運営はもう絶対こうやったほうがいい」と主導してくれたことで、衛生管理が徹底されました。例えば、建物の中に入るときには靴の裏を洗う、といったルールや、感染症対策がうまく機能し、そこではコロナやインフルエンザの発生が一度もなかったんです。
聞き手
避難者の主体的な関わりもあったのでしょうか?
竹原さん
実は、輪島の中でも避難所運営に関してうまくいかなかったのは街の中心部で、やっぱり住民が率先して炊き出しする、といったことが少なく、輪島の中でも田舎の方では、それぞれが持ち寄って炊き出ししたりとか、うまく共同生活をしていた印象はあります。
今回の地震を経て
聞き手
今回の経験を踏まえて、消防として何か備えや対策はされましたか?
竹原さん
地震後、私は、市役所に来てしまったので、消防として何をどう変えたかまでは詳しくはわかりませんが、備蓄の量は増やしたと聞いています。
聞き手
消火活動において、建物の構造や設備が原因で困難を感じたことはありましたか?
竹原さん
建物の老朽化していて倒壊率が高く、延焼の原因になったと思います。実際、延焼を防ぐには「空地」の存在が重要なのですが、倒壊家屋が朝市のメイン通りの空地に崩れてきて、本来なら延焼しないはずの距離でも火が広がってしまう状況が多かったです。
聞き手
逆に、建物の構造が救助や延焼防止に役立ったことはありましたか?
竹原さん
延焼防止については、耐火建築物などはやっぱり燃えにくいので、それはあると思います。救助については、建物の構造というよりも、助かった人は机の下にいたことが大きかったですね。高齢の方だったので、こたつ入っているときに揺れて、家が潰れてもこたつがちょうど身体を守る形になっていたんです。こたつの足が潰れていても、その隙間にどうにか体を入れられて、無事に助かったというケースが何件もありました。現場を見て、「机の下に避難する」という基本動作が本当に大事だと実感しました。
聞き手
災害に強い建築や都市計画について、消防の視点から改善点はありますか?
竹原さん
これは本当に難しい問題ですね。そもそも昔の法律に基づいて建てられた家ばかりなので、今さら、密集しているから解体して建て直すことなんて当然できません。
でも木造密集地域については何ヶ所か指定されているので、水利の確保がうまくできればいいなとは思っています。ただ、現実的には限りがあるんですよね。都市計画とは別かもしれませんが、災害時に“無限に水が取れる場所”の確保は、大規模火災になるほど重要になってくる。
朝市の火災では最終的に海から水を取ったんですが、いきなり地震直後に海へ行くのは難しい。海に頼らず、無限の水利を確保できる手段が必要だと強く感じました。深井戸なども選択肢ですが、「この区域には何箇所の無限水利を設けなさい」みたいな記載が都市計画に盛り込まれているといいですね。
聞き手
今回の地震対応で有効だった取り組みはありますか?
竹原さん
一番大きかったのは、消防署内の人間関係がもともと非常に良かったことですね。災害時って、24時間ずっと一緒に行動しないといけないじゃないですか。うまくいかないことも多くてストレスも溜まっていく、そういう時に元々の関係性が築けていると、自然と協力体制ができる。消防署では、若手が率先して動いてくれたことが非常にありがたかったですね。
聞き手
今回の震災で、設備面でよかった点や、逆に改善が必要だと感じた点はありましたか?
竹原さん
良かった点で言えば、地震が来た瞬間に車庫から車両を全部出せたことです。地震の少し前に珠洲で揺れがあって、消防署では車両を全台車庫から出していました。一方、消防団の車両は地震の揺れでシャッターが開かず、車両を出せなかったケースがたくさんあったと聞いています。
ただし、反省すべき点もあります。車両は横並びにしていたんですが、揺れで横の車両に倒れこんでしまい、使えなくなる車両もありました。並び順を互い違いにしておけばよかったな、という話はしています。
あとは、災害用に整備していたチェーンソーや発電機などの道具は、全部自分たちの手作りの木製棚に収めてあったんですけど、地震で全部倒れて結局何一つ取り出せませんでした。また、免震構造の可動式の書類棚を使っていたんですけど、棚ごと壁が倒れてしまって、免震の意味をなしていませんでしたね。おそらく、ちゃんと躯体にアンカーボルトなどで固定されていなかったんだと思います。設計や施工の問題なのかはわかりませんが、こういう部分も見直さないといけないですね。
聞き手
パソコンやコピー機、スマートフォン以外で、災害時に電力で動かしたい機器には何がありますか?
竹原さん
無線機の充電なんかも必要だと思いますね。あと、消防署ではなかったですけど、他の地域では自家用の発電機を持ってきていた方もいました。特に孤立していた西保地区では、発電機ではなく分団のポンプ車そのものを発電機代わりに使っていたと聞いています。漁港が近くにあるので、軽油は船から取れて、ポンプ車も軽油で動くんですよね。漁船から油を抜いて車両に入れ、それ自体を発電機として使ったりと、柔軟に対応していたようです。
聞き手
避難所への燃料供給が遅れるという話もありましたが、代替手段はありますか?
竹原さん
指定避難所には発電機を配備していますが、実際に運用するのはなかなか難しい面もあります。そこで、ポータブル電源とソーラーパネルの組み合わせを用意して、公民館などでは常時満充電の状態で使ってもらうようにしています。避難所では、何よりもスマホの充電需要が大きいので、こういった簡易的な電源確保が役に立つと思います。そして、公民館に置きながらも、常時充電しながら使ってもらうように指示しました。
聞き手
今回の震災を通して、防災体制や消防のあり方について、今後変えていけたらと感じた点はありますか?
竹原さん
今回、緊急消防援助隊として多くの隊員が全国から来てくれましたが、助けられる命は本当に限られていたと感じています。特に救助という観点では、支援隊が到着した時にはすでに手遅れなケースが多かった。つまり、本当に命を救えるのは、最初に現場にいる地元の消防職員なんです。だからこそ、「職員一人ひとりの対応力の向上」が非常に重要だと痛感しました。
地理的条件もあり、外部からの支援の限界を感じましたね。特に孤立した集落では、配属されて間もない若手2人が火災、救助、救急すべてに対応しなければならなかったケースもありました。そういった想定外の状況で動けるようにするには、若手の育成が不可欠だと私は思います。
あとは、市役所へ来てから思っていることなんですけど、消防団ってすごい可能性を秘めていると思っていて、輪島消防署の職員は60人程度ですが、消防団400人以上います。訓練や体制整備次第では、6倍近い力を発揮していただけるのではないかと思います。
実際、今回の避難所運営でも、消防団が主導して動いた地域もありました。地元のことをよく知る消防団だからこそ、意思決定にも強い影響力があるんです。なので、消防団の育成に特化した訓練等を行いたいな、とは思います。
聞き手
能登地域のコミュニティの強さが役立った点はありますか?
竹原さん
安否不明者のリストは県から共有されていましたが、消防でも安否確認を取れないこともありました。道路が寸断していて孤立状態にある人に関しても、近隣の集会場に行って、区長や近隣住民に「この人安否不明リストに上がってるけど知らんけえ」という感じで聞いたら、「あの人もう帰ったわ、金沢行ったわ」とそこから情報が得られたので、輪島ならではの地域のコミュニティの強さが非常に役立ちました。その点では、都会では同様の連携は難しいかもしれませんね。

伝える
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生活支援を実施して」 -
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「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

