体験を語る
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生き埋めからの救出劇と輪島朝市通り老舗再建への決意

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年10月29日 |
地震発生前と直後の様子
聞き手
地震当日のお正月をどのように過ごされていましたか?
田中さん
大晦日は家族で集まり、団欒して紅白を見て、穏やかに過ごしました。元日の朝は、祖母の家に行ったり、墓参りや神社へのお参りをしたりして、夕方4時頃、祖母の家でおせち料理を食べていました。最初の震度5の地震があり、うちの店は珠洲の陶器を扱っているんですけど、店の品物が割れていないか心配になって、外に出た瞬間に震度7の地震が来ました。隣が酒屋さんで、その酒蔵の下敷きになり、一時間半潰されていました。
聞き手
その時の状況を教えていただけますか?
田中さん
意識はありましたが、真っ暗で重く、息苦しかったです。母親が自分が埋まるのを真横で見ており、近くにいた姉の家族に助けを求めました。埋まったのは自分一人だけでした。姉の旦那がちょうどいたんですけど、自分が全身埋まっていたのは10分間です。その10分間で顔だけ掘り出してもらいました。後々医者に言われたのは、「20分埋まっていたら死んでいただろう」と。圧迫死、窒息死で、ギリギリだったということです。体に土壁と、あと瓦が完全に覆いかぶさって、身動きが取れない、真っ暗闇で重たい状態でした。顔だけ出た時は、体は楽になりましたけど、まだ足が抜けていませんでした。息ができるようになり、会話もできました。頭を打っていなかったのが幸いです。
埋まっている最中に火災警報が鳴りました。向こうで火災警報が鳴って、みんな「大津波警報だから逃げろ」と言っていたんですけど、一人おじちゃんがいて、「逃げて終わりか。一人待ってるんだぞ」と言って、その人が7、8人呼び止めてくれました。まず一般人7人の方々が救出に対応してくれて、どうにかこうにか。最終的に消防士の方を呼んでくれたのが竹原さんでした。一人だけ来てくれた竹原さん。足が抜けなかったので、最後は車のジャッキを2つ使って抜け出しました。
元日の夕方4時なので寒かったですし、周りはもう暗くなりかけていました。ただ、その時雨が降っていなかったのが幸いです。天気がすごく良かったので。火事の様子は、正直一本奥の通りで起きていたので、こっちまで来るとは思っていませんでした。だから火事の心配はなかったです。それよりも、目の前が海なので、大津波警報がバンバン鳴っていて、「津波が来る、津波が来る」と言われていたので、そっちの方が怖かったです。
聞き手
無事救出された後、どうなりましたか?
田中さん
無事ジャッキアップで救出されて、その後は救急車も来なかったので、姉の旦那におぶってもらって、ルートインというホテルの8階まで運んでもらいました。付近では一番高い建物だったので、津波が来ないだろうと皆自然にルートインに集まっており、避難所のようになっていました。救出された直後はアドレナリンが出ていたのか、そうでもありませんでしたが、横になった瞬間に腰に激痛が走りました。肩も痛め、結果的に腰の骨を4本骨折し、肩の靭帯が伸びていました。そこでも一、二時間ずっと寝たきりでした。救急車も来ないので「どうしよう」と思っていたら、市役所の方がたまたま見回りに来たんです。ルートインの人が市役所の方を呼び止めてくれて、今度は市役所の方全員で自分を下まで運んで、市役所の車で病院へ行きました。それが1日の夜8時か9時です。夜8時頃に市役所の車でルートインを出る時、ものすごく炎が上がっていた光景は覚えています。
ルートインに行こうとなったのは、そこしか避難場所がなかったからです。避難でルートインに逃げようということで。避難場所として開かれていたようです。一番高さのある建物がルートインじゃないですか。自然にみんな「ルートインへ」という感じでしたね。ルートインに逃げておけば津波は来ないだろうということで。地震の前から、津波の時はどこに逃げるかという話はしていて、「とりあえずルートインかな」とか、「あと一本松公園かな」という感じはずっとしていました。
入院、リハビリを経て、店舗再建へ向けた活動開始
聞き手
どのぐらい入院されたのですか?
田中さん
輪島病院に3日間入院しましたが、病院も正直もうパンク状態で機能していなくて、寝たきり状態でただ点滴を打たれるだけという感じでした。食べ物もなくて、本当に紙コップに牛丼の肉とご飯が少しだけ、という状態で3日間過ごしました。レントゲンで腰の骨が4本折れていることがわかりました。
病院で3日間過ごした後、「退院してください」と言われました。「骨4本なのでなんとかなります。もっとひどい人がいるので、救急車も出せません」と。さすがに寝たきりで電気もガスも来ていないのに家に帰ってもしょうがないじゃないですか。姉が金沢の脳神経外科病院に勤めていたので、すぐ連絡してくれて、「自力で来れるなら入院できますよ」と入れてくれました。次の日から金沢に到着するまで5時間、揺られながら、激痛に耐えながら行きました。道もガタガタで、穴水まで出るのに2、3時間かかるところを、父が5時間車を走らせてくれて脳外科まで行きました。
自分は入院して、それから3週間ほど寝たきりでした。父や他の家族は、姉の家が白山にあったので、そこにみんなで避難していました。祖母も一緒に白山の方へ。1月から3月の頭ぐらいまで避難していました。電気が来たら戻ろうということにしていて、水道が戻ったので「じゃあ戻ろうか」と戻った感じです。3週間入院した後は、白山の方で過ごしていました。
3月ぐらいにみんなで輪島の自宅に戻りました。自宅の様子は、自分が白山にいる間に父が何回も行って片付けをしていたので、もう綺麗でした。自分は怪我で戦力になれないじゃないですか。
その時は松葉杖も使っていませんでした。病院からは、そもそも3週間で退院できる怪我じゃないとびっくりされて。「3週間でここまで回復したのはありえない」と。もともと筋肉があったからここまで回復できたんであって、筋肉がなかったら多分3ヶ月ぐらい入院しても治らないよ、と言われました。回復力が早かったです。
回復してからは、姉の家でリハビリがてら外を歩いたりしていました。輪島の方には3月まで戻ってこなかったです。1月、2月は姉の家から病院に通ってリハビリに行ったりしていました。3月に戻ってからの生活は、父が片付けをしてくれていたので、割と落ち着いていました。ただ、仕事がないな、と。1ヶ月間はとりあえずゆっくりしていましたが、4月からちょっとバイトに行きました。3月から4月で一番大変だったことは、とりあえず仕事をどうしようかというところだけですね。店を再建できるのかというのもあったし、このまま何もしていないわけにはいかないよな、とは思っていました。
聞き手
その時点でお店をどうしていこうか考えていましたか?
田中さん
自分の知っている人たちは「もうどうしよう、どうしよう。これは壊滅的だよね」というような話はしていました。寝たきりの時に色々な人からメールや電話が来て、「復活してください」「再建してください」という言葉をいただいたので、自分の再建は、もう1月のベッドの上で決めました。いずれ絶対に店を作ってやろうという気持ちでした。場所も同じ場所でと決めていましたね。同じ場所で絶対に店を作ろうという気持ちでした。色々な方からメッセージをもらって、3月にクラウドファンディングをさせてもらいました。
あの時、ちょうど色々な人がクラウドファンディングをやっていました。朝市の他の店も結構クラウドファンディングをしていましたし、朝市以外にも輪島の人たちがしていました。

聞き手
そもそも、どのようなお店を営まれていらっしゃるのでしょうか。
田中さん
うちは雑貨店です。もともと傘や帽子、バッグから始めて、創業69年ですね。祖父の代からやっていて、私で三代目です。もともと「天田」というのは母方の苗字で、祖父が津幡の方の出身で、津幡から輪島に来て店を一代で築いてくれたようです。
高校の時にはもう「継いでほしいな」という感じで。自然と天田商店に入りました。もともと自分も朝市の風景を見て育ちましたから。育った場所も同じ輪島の中です。小さい時から天田商店も見ていましたし、朝市通りの賑やかなところも見ていました。
高校を卒業してすぐ、18歳で入りました。2009年です。その時は祖父も祖母も元気で、家族4人と従業員一人でやっていました。あの時は忙しかったですが、一年目はすごく楽しかったです。継いだ一年目の時はすごい人が来ていて、「なんて良い仕事に就いたんだ」と思いました。
その後、福島の地震があったときは、あちらの方からは人が来なくなりました。コロナの影響も大きかったです。どんどん人が減っていきました。その時は朝市の皆で「このままでいいのか」というような話はしていました。
コロナが明けてからは、皆「今からだよね」ということで気合は入っていました。少しずつ人も戻ってきて、コロナ明けの一年目は楽しかったです。お祭りなども普通に再開されて、賑やかな状況に戻ってきていました。「来年からまた気合を入れていこう」という時に、今回の地震が来たという感じです。1月の大地震の前にも、能登の方で地震がちょくちょくあったので「大丈夫かな」とは思っていました。珠洲の方でも多かったですし。
聞き手
取り扱われている商品について、具体的にお聞かせいただけますでしょうか。
田中さん
今は珠洲焼だけです。震災後は、珠洲焼と少し箸を。輪島で珠洲焼を売っているのはうち一軒だけです。資料館とかは再開していますけど、ほとんど置いてないです。今は亀田さんに卸してもらっています。
聞き手
地震の前も、珠洲焼は扱っていたんですか?
田中さん
はい、扱っていました。それが輪島で有名になったきっかけなぐらいです。輪島の人には「帽子屋さん」「傘屋さん」で通っているので。もともと傘で一代で大きくした店なんで、うちは。地元では傘屋さん、帽子屋さんです。
ゆくゆくはそっちも再開して、傘も置いていこうと思っています。今はスペースがなくて珠洲焼しか置けていない。それでもいっぱいいっぱいです、スペース的に。これでも、今の珠洲焼の何倍っていう数の品物があったんです。珠洲焼自体も、作家さん3、4人から仕入れていましたし。辞めちゃった方も多いので。
昔から祖父の代からの付き合いが長かったというのがあって、最初に仕入れた人の紹介で仕入れさせてもらったりしていたので、信頼感が一番強かったですよね。作家さんもそんな安易にいろんなところには出さないですし。そういうのもあって、天田商店だからということも多かったです。
聞き手
3月にクラウドファンディングを実施されたとのことですが、その後の展開や取り組みの流れについてお聞かせください。
田中さん
4月にとりあえず運動をしようと思って、ジムに行きつつ、そこに知り合いがいたので「どこかバイトしたいんです」と相談した瞬間に、そのまま向かいの居酒屋の面接に連れて行かれました。すぐに話がトントン拍子で決まりました。
「腰の骨を4本折っているんですけど、働いていいですか」と聞きました。健康面について聞かれたので「骨を4本折っています」と。その時も、いずれは天田商店で働くつもりだったので、「天田商店が再開して軌道に乗るまで働かせてください」ということでお願いしました。
4月10日くらいから働いているので、すぐですね。それからほぼ休まずに。バイトは週4ぐらいのペースで行っていて、最初の頃の居酒屋の忙しさにはびっくりしました。
「輪島カブーレ」というところで、風呂と居酒屋がセットになっています。そこで働いています。入った時は、まず風呂のお客さんの接待でした。1日300人ぐらいは自分一人で回していました。
聞き手
一人だったんですか?
田中さん
居酒屋も精一杯なので、風呂はとりあえず一人で、ということで。いつも30人、40人待ちの風呂を、何回も見に行って順番に回していました。最初の担当が風呂担当ですね。誰もいないから「とりあえず風呂に行ってほしい」と一人でやりました。男風呂を見る人がそもそもいなかったらしくて、「待望の男の人だ」ということで。
カブーレのお風呂はすぐ再開していました。再開して、30人待ち、40人待ちで。1日300人です。男性も女性も、すごかったです。8人、9人とどんどん、どんどん来るけど、カブーレの風呂ってそんなに広くない、頑張って入って10人、12人なので、もう何回も行って「座ってください」と言いつつ、待っている人たちはその辺で座りながら。でもお客さんももう分かっているから、座らずに待つんだろうなと。輪島では、他に風呂の施設はねぶた温泉と、自衛隊のお風呂。最初は人がすごかったです。やっぱり、順番を狂わせちゃダメじゃないですか。待つ間にご飯を食べるという人もいて、整理券はあるけど、こっちで把握しながら、チェックしながらなので、最初の方は大変でしたが、慣れてくるものです。コツはとりあえずないです。慣れですね。様子を見て、一気に入れたら何人出るか、みたいな。
ほとんど一人で対応しました。なんせ居酒屋もすごかったので。居酒屋がカブーレしかやっていなかったんです。今は色々できていますけど、当時は飲むところがカブーレしかなかったんです。そういう意味で結構、色々な拠点になっていたというか。
カブーレは色々早かったです。ジムはもうカブーレだけじゃないですか。最初にそのジムに行こうとなったのは、もう体がボロボロだったので、リハビリのためです。そこから居酒屋の話につながりました。
聞き手
その時期で何か助かったことなどありましたか?
田中さん
結局、風呂のお客さんからのメディア対応ですね。お客さんがメディアの方で、そこから『news zero』で話したり。働いていなかったらテレビの取材もなかっただろうし、まだここまで天田商店も有名になっていなかった。色々トントン拍子で、カブーレつながりでNHKに出たりもしたので、ありがたいのはやっぱりカブーレのお客さんです。今も店を再開したから、ボランティアの人が天田商店に買いに来てくださっています。
聞き手
メディアに出てからクラウドファンディングのことが話題になったのですか?
田中さん
クラウドファンディングが終わった後だったんです。なかなか集まらなかったですね。目標金額がちょっと高すぎて、1000万円ぐらいだったんですよ。今やった方が集まるんだろうなと思いますけど。集まったのは100万、200万円ぐらいです。期間は3ヶ月で、3月から始めて6月で終わった後にメディアに対応させてもらって、そこで天田商店がわりかし有名になりました。MROとかNHKとかに出させてもらって。NHKのBSで30分特集も。それを結構見ていた人が多くて。
聞き手
お店の再建についてはどういった活動をされていたんですか?
田中さん
10月までは再開していなかったので。帰ってきて、まず元の敷地のところは全焼という感じで。そこは公費解体を始めていました。仮設の朝市をワイプラザ(ショッピングセンター)でやっていたのは知っていたんですけど、売るにも品物がなかったので。仕入れているものなので、作るわけでもないし。たまたま、その10月末に窯を再建してくれた方が僕の問屋さんで、始めたことを知って、「じゃあワイプラザで出よう」となったんですよね。ワイプラザでの朝市が始まったのが7月1日で、自分が入ったのは10月25日。その前に豪雨もありましたね。自分の店はそうでもないですが、なんせカブーレがもうどっぷり泥に浸かったので、2週間ぐらい泥かきをしていました。
ワイプラザで始めた時の品物は珠洲焼だけです。今も珠洲焼だけ。スペースがまだあれだけしかないので。小さいので珠洲焼しか置けない。店を再開するまではとりあえず珠洲焼だけです。

聞き手
1月に地震があって、やっと10月にワイプラザという場所で再開してみて、感想や様子はどうでしたか?
田中さん
この一年で、すごいお客さんが来てくれましたよね。最初始めた時は大丈夫かなと思っていましたが、この一年間で本当に色々な人に来てもらって。ありがたいですよね、テレビの力で。芸能人に来てもらったり、色々な言葉をかけてもらったり。10月の時はちょうど落ち着いていて、ボランティアの人が一番来ていました。その後どんどん人が増えていきましたね。この前も石川県のPR動画でYouTubeに出させてもらったり。1分30秒の広告動画に結構流れています。
他のお店も増えました。10月の時点では10店舗ぐらいだったのが、今35ぐらいあるので。場所がまず変わったので、お客さんが減ったとはやっぱり言っていますけど、広くなった分、見やすいですけどね。ここ最近、ツアーバスがすごいです。ここ最近で一気にツアーバスが入るようになったので、その影響が大きくて、お客さんは逆にまた増え始めています。観光ツアーとか色々来ているので。和倉温泉が少し開業したのが大きくて、そこまで来た分、ツアーバスも来るようになったので。

聞き手
現在はどのような生活ですか?
田中さん
今は週7日で働いています。天田商店が週6日で、カブーレのバイトが週4日。お店の定休日は水曜日ですが、基本バイトがあるので休みなしです。天田商店の休みでもカブーレがあるし、カブーレの休みでも天田商店がある。天田商店に行った後にカブーレに行く日ももちろんあります。朝、天田商店、夜カブーレ、次の日の朝また天田商店、そしてカブーレという日もあります。
あと、週3でジムで筋トレもしているので。こんだけ働いて、週3でがっつり筋トレしていますけど、この筋トレで体力を鍛えているから体が持っているのもあるんです。運動しなかったら多分体は持たないです。
力を合わせて朝市の再建を目指す
聞き手
朝市としては、今はワイプラザでやっていますが、今後はどうしていこうという話はあったりしますか?
田中さん
自分の話はもちろん、朝市として、そこは今結構問題で、揺れています。令和9年7月にワイプラザでの契約が満了になるんですけど、その後ですよね。私たちとしては、大屋根の下でやりたいという話もしているんですけど、市としてはやっぱり、元の場所で再建したいという話も出ていて、今がっつり会議中です。
自分としては、朝市が大屋根に移るとしても、正直、別で店を作るので、そんなに小さな店舗でやるつもりはないです。朝市を離れたとしても、自分のいた場所で店を作るつもりでいます。露店の人は正直、場所があればどこでもできるじゃないですか。でも、商店の人とか店を作る人はそういうわけにはいかない。店を構えようと思っている人は、小さなところで何年も食べていけるわけでもないですし。
聞き手
天田商店さんのように、朝市を離れたとしても店は作りたいという人は何名かいらっしゃるんですか?
田中さん
いますし、二拠点でやればいいという話も出ますけど、二拠点もなかなか大変じゃないですか。二店舗持つみたいなことですし、それもなかなか難しいので。今後、来年以降の話ですけど、いいふうにまとまってくれればいいと思います。元のところで再建すると、もしかしたらもう朝市とは離れることになるのか、どうなるかですよね。今、会議がすごいです。白熱しています。
聞き手
今までいろんな話し合いの中で、何か印象に残っていることはありますか?
田中さん
印象的なのは、朝市を再建していこう、みんな輪島を良くしようという気持ちは変わらないということです。本町の人と朝市の人がうまく話し合ってくれれば。自分は代表でもないので、下手なことは言えないですけど。でも、輪島といえば朝市!みたいなところはありますもんね。朝市の復活はみんなが願っているのは間違いないです。
とりあえず今はワイプラザでやれていて、70代の人も多いので、あと何年続けるかわからないという人もいます。場所を移してまでやるかどうかっていうのでもやっぱり変わってくるじゃないですか。
ちなみに、朝市の店舗はもともと300店舗ぐらいいたのかな。今は100ぐらいで、少なくなりましたね。地震を機にもう辞めるというところも結構あります。まだ魚屋さんも再開できていない人が多いので。
輪島の復興の上でも漁業は欠かせないですし、漁業が再開してくれないと我々の未来はないと思っています。少しずつ船は出ているにしても、やっぱり少ないですからね。漁業の方ががっつり再開してくれると、人も増えます。あとは泊まる場所ですよね。そこと漁業、この二つです。地震の前は泊まる場所が結構あったんですけど、今は泊まるところが少ないじゃないですか。みんな足並み揃えてやっていかないと。燃えたところに自分の店だけ建ててもしょうがない。正直、人が来るわけでもないですし。
そういう同じ志の仲間みたいな、店を作ろうと思っている人は何人かいます。
再建に向けた情報共有みたいなことは、いつも会議の中でされています。そこは行政とかも参加して、市と話し合っています。「こういう補助金があるよ」とか。街並みの色を揃えたいので、「外壁とかを揃えたら補助金が出ますよ」とか、「中は変えてもいいけど外壁は揃えてほしい」とか、「勝手に建てないでください」と言われて、まだ待っている状態です。
勝手には建てられないんですよ。建てても取り壊す可能性があると言われています。「未来都市計画」という計画の範囲内に入っているから、勝手には建てないでくださいと。それで今もう待っている状態です。
現在の課題と三代目店主としての決意
田中さん
直近の課題は、自分の場合、一個一個包装して持っていくこともできないですし、出張販売とかは行かないので、珠洲焼の作家さんが増えてくるのを待つのと、新たな問屋さんを探すことですね。帽子を扱うにしても、どこから仕入れようかなとか。珠洲焼以外の帽子とか傘の方もどうしていこうかっていうのを今考えながら。あとは店舗の建設ですね。考えることは尽きないです。立て直しに向けていろいろと。
帽子とか傘っていうのは同じところからも仕入れようと思っていますし、帽子屋さんもいい年齢の方が多いので、新たに卸屋さんを探そうかなと。ちょっとおしゃれな帽子とか、若者向けの帽子も多いところがいいかなと思っています。少し路線を変えたりとか、そういうことをやんわりとですけど、少しずつ考えてはいます。
聞き手
今一番大変なことは?
田中さん
今一番忙しいですね。朝と夜のバイトの生活で。働きすぎだよとはよく言われるんですけど。それはでもやっぱり将来のその建て替えのためですけど、ちょっと休んでもいいのかなと一瞬思ったりもします。でも、結構突っ走る人間なんで、だいぶ休みなしに生きています。
聞き手
その頑張るモチベーションは、どういうところに?
田中さん
店を作りたいし、同じ場所で店を作りたい。あの場所が大好きだから。愛着ですね。もう何年間もやってきて、あの雰囲気も好きだし、やっぱり商売が大好きです。お客さんとの会話も楽しいし、ネットで売るとかじゃなくて、やっぱり直接売るのは楽しいです。で、またリピーターになってもらって、その人付き合いとしても大切に。本当に応援してもらっている人が結構多いので。震災後知り合って応援してくれた方のためにも、下手な店は作れないなと。自分一人の店じゃないなと思っています。
聞き手
お客さんの反応はどうですか?
田中さん
応援もありますし、「いつ再開するんですか」という話はやっぱりよく言われます。輪島のことが気になっていて、というのも、結構県外ではもう報道されていないみたいで。地震のことは。もう輪島は復興したんでしょって思っている人もいるみたいで。実際に来てみて、「まだこんな感じなんですか」という声が一番大きいです。「もっと復興していると思った」という声が大きいです。「来てびっくりしました」とみんな言われますね。様子がまだなかなか外の人まで伝わってない。2年も経ってるし、だいぶ復興してるでしょ、みたいな感じはあるけど、実際輪島に来てみたらちょっとびっくり、という話は大きいです。
天田商店として、地震の前からずっと来てくださっているリピーターみたいな方もまたいらっしゃっていますし、地震後にリピーターになったお客さんがかなり多いです。ありがたいことに。県外の方とか、インスタをフォローしてくれたり、テレビを見てくれたり。インスタはもともとやっていました。でも、店専用のインスタは作っていなくて、震災後に店専用のインスタを作りました。個人のインスタで店のことも投稿していましたけど。
SNSでの広がりとかつながりが大きいですね。今1040人ぐらいのフォロワーさんにフォローしてもらっていて。帽子がトレードマークになっているのもありますし。震災直後に天田の看板が崩れているところでキャスターが報道していて、それがテレビに結構映ったらしくて。「天田の看板が崩れている」というのが結構衝撃的だったみたいです。
聞き手
印象に残っている応援の言葉かけは何かありますか?
田中さん
直接手紙をもらったり、母親のお客さんから手紙をもらったり。70代の人からは「俺が生きている間には絶対店作ってくれよ」「頼むぞ」とそう言われています。年配の方々の期待も大きいですし、若手のボランティアの人も言ってくれています。
ボランティアとか、外部から来てくれた人との関わりも結構大きいですね。最初の頃はボランティアの人もお客さんとして多かったですし。夏ぐらいからずっと居酒屋のバイトもしてるんですけど、そこで他県のお客さんも来てくれたりするので。外部から来てくれたボランティアの人と関係ができて、その後、ボランティアが終わった後も関係が続いたりっていうこともあります。旅館に泊まっているボランティアの方もいっぱいいるんですけど、その方に本当に助けてもらって。旅館の方が、別の旅館の方に天田商店を勧めてくれて。
聞き手
日本は地震大国と言われています。未来の被害を受ける方々に向けて、何かアドバイスやメッセージがあればいただけますか。
田中さん
急な地震にはやっぱり対応できないので、地震が起こった後の対応ですよね。慌てないこと。自分みたいに急に外に出ても危ないですし。震度7の地震が何度も起きることはあんまりないと思うんですけど、1回起きている以上、何回起きてもおかしくない。
聞き手
輪島朝市だからこそ、あるいは天田商店だからこそ、よかったこと、できたことはありますか?
田中さん
朝市はやっぱり1000年続いているビッグネームなので、まずその朝市を閉ざさせるわけにはいかないじゃないですか。自分は30代で、これから背負っていかなきゃいけないと思っています。もちろん自分一人では朝市を立て直せるかと言ったら無理なんですけど。
天田商店は祖父が大きくして、ネームバリューも大きくしてくれた店ですし、朝市に天田商店があるから今も頑張れているというのはあります。他のところでやっていたら、もしかしたら再建は無理だったかもしれない。朝市で天田商店をやっていたからこそ、今も頑張れて、そこに立ち向かっているという感じです。
聞き手
最後に一言、決意表明をお願いします。
田中さん
輪島が好きなので、輪島のために頑張って店を作り、少しでも輪島の発展に貢献できるように頑張ります。

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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市上下水道局長(当時)
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「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
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「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
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「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
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「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

