体験を語る
- 教育・学校
みなし避難所となった志賀小学校

| 場所 | 志賀町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月5日 |
地震発生からの流れ
聞き手
地震が発生してから、学校の鍵を開けるまでの流れを説明していただいてもよろしいですか。
岡山さん
私は、ここから車で 3分ぐらいのところに家があるんですけど、家にいた時に揺れがありました。有事というか、何かあった時に学校に来る人が、志賀町に住んでいる中で何人かいて、私がその中の一人なんですね。お正月で、姉が甥っ子たちを連れてきていて、皆で一緒に、車に乗って学校に来ました。
聞き手
鍵は皆さんで持っているのですか。
岡山さん
一人一つずつ鍵を持っています。駐車場になんとか駐車して、待機していました。
みなし避難所になった志賀小学校
聞き手
ここは元々避難所として想定されていたのでしょうか。
前田さん
地震の避難所にはなっていませんでした。だから避難された方に対する毛布や水などの備蓄も、ここには全くなかった。とにかく津波の恐れがあるということだったから、みんな慌てて、ちょっと高いところにあるこの学校へ来たんです。
もう一つ、この下に志賀高校と志賀中学校もありましたけど、電気がダメだとかいろんな理由で受け入れすることができなかったことも重なって、こちらに集中しました。そんな中で彼女が鍵を開け、みんなが入ってきて、結局、避難所を開設したという流れです。
聞き手
避難された人数はどのくらいですか。
野村さん
1日は学校に約700人、駐車場に約100人です。
岡山さん
教室とかワークスペースに人がいました。
聞き手
車での避難者は、学校の前の駐車場だけで足りたのでしょうか。
岡山さん
運動場も使用しました。
聞き手
なにか誘導などはされましたか。
側垣さん
私は津波が来てないことを確認してから学校に来たんですけど、来た時には地域住民の方がボランティアで自主的に誘導してくださっていました。おかげで私もスムーズに駐車することが出来ました。
聞き手
学校では、皆さんどのように避難されていたのか教えていただきたいです。
岡山さん
はじめは体育館が避難場所になっていたんですが、冬場で寒かったので、校舎側も開放されました。
側垣さん
その晩は氷点下2度ほどで、外で泊まられている方も寒くて中に入ってきました。車の表面も凍り付くほど寒かったので、電気があり、暖房が付いていた学校に来られて寝てらっしゃいました。
前田さん
本来なら、教室は子供の私物もあるし、解放したくはなかったのですが、1階から3階まで全部解放しました。理科室などは危ないので解放していません。
中越さん
1階は全部埋まって、2階も使いましょうとなり、3階もぽつぽつという感じで少しずつ広げていったというところですね。
聞き手
避難者の方の区分けは何かされましたか。
前田さん
避難してすぐの話ではないですが、3階に小さい和室があって、そこは小さい子どもと一緒に来た家族が個別になるようにしました。
聞き手
それ以外は教室に好きなように入ってもらうような感じですか。?
岡山さん
そうでした。
聞き手
時期的にコロナやインフルエンザの患者や、また高齢の方もいらっしゃったと思うんですが、そういう方々に対して何か特別な対応は取られていますか。
岡山さん
近くの高齢者施設の方は保健室に入りました。
側垣さん
トイレが近いので1階にということで、職員室とトイレの近くの部屋はそういった方々に譲る形で移動をお願いしました。あと、あの時はそんなに確認はできなかったけれど、感染症の疑いがある人もいたので、個室みたいなところに入ってもらって、あとは病院に行ってもらう形を取ったと思います。
聞き手
具合が悪そうな方は同じところに集めていたということでしょうか。
側垣さん
たくさんいたわけじゃなく、私が見たのは 1人だけで、その方もすぐいなくなられました。その方がその後どうなったかは、ちょっと分からないですね。
聞き手
他の避難所では、車で来られた方々が2~3日の時点で、ご自宅だったり、金沢の家に帰られたりというお話も聞いたんですが、どうでしたか。
側垣さん
駐車場は確かに減ってはいきました。確か途中で計った時は500人ぐらいだったはずです。
中越さん
3日ぐらいから、戻っても大丈夫そうだし、自宅の片付けをしながら、夜は怖いので、夜寝る時だけこっちに来るという方がたくさんいました。
トイレについて
聞き手
電気は通っていたという話ですけど、水道はどうでしたか。
中越さん
水道は止まりました。
側垣さん
学校の貯水槽があって、その中に溜まっていた水を使ったんですが、それも1日目の晩にはなくなりました。量が少なくなったところからトイレで大変なことが起こったんです。
中越さん
2階と3階のトイレは貯水槽からの水があったので使える。そうすると皆さん水が使えるんだと思って、1階のトイレも使うんですけど、1階は町の水道管から直接なので実は使えなかったんです。みんな使えると思って使って、流れない。それで大変なことになりましたね。
側垣さん
大掃除が始まりました。
聞き手
その掃除は職員さんがされたのですか。
側垣さん
はい。当時ボランティアで来てくださった皆さんとか、お手伝いを呼び掛けて来てもらった方にもやっていただきました。
中越さん
掃除の前に、プールの水をバケツで汲んで流せばどうだろうかということで、学校中のバケツを集めて、みんなで汲んでやってみましたが、それでも詰まってしまって、全然うまくいきませんでしたね。
聞き手
下水道は問題なかったのでしょうか。
岡山さん
それが確認できなくて、怖くて流せないっていうのもありました。
側垣さん
水が溢れると処理が大変だから、申し訳ないけど使わないで下さいということにしました。簡易トイレはいつからありましたかね。
野村さん
1月1日に水道が復旧しないので簡易トイレが設置されたと記録にあります。
岡山さん
帰省されていたどこかの学校の保健の先生が、トイレは絶対きれいに保っておかないといけない、土足だし、このままだと衛生的に大変なことになるとおっしゃって、保育士さんとか、処理ができそうな方に声をかけて、有志で簡易トイレの設置をしました。仮設のトイレが来るまではありましたね。
野村さん
ゴミ袋を敷いて、そのゴミ袋の上の部分だけを取り替えれば常に綺麗に使えるということを教えてもらって、学校中で設置した記憶があります。
聞き手
仮設のトイレは行政の方にお願いして設置してもらったのですか。
岡山さん
誰かが電話して、手配してくれました。
聞き手
小学校なので、かなり数はあったんですかね。
側垣さん
たしか10個くらいです。
岡山さん
それが来るまで本当に大変でしたね。地獄みたいでした。
野村さん
仮設の設置が 3日って書いてあるので、多分1、2日はトイレの掃除をしていました。
側垣さん
トイレのことで気づいたんですけど、やっぱり年齢によってやりやすいトイレとやりにくいトイレがあるんですね。よく工事現場に置いてあるようなものだと、狭かったり、階段を上れなかったり、和式じゃ無理という方もたくさんおられて、洋式に対応したものをお願いして、持ってきていただいたのもあるし、取りに行ったのもあります。
学校のトイレも、簡易トイレは設置したんですけど、結局個室の中自体はそんなに広くないので、やっぱりやりにくいんでしょうね。どうしても1人ではきれいに処理ができないので、もう本当にすぐ汚れて、2~3時間に一回は手が空いている人でトイレを回って掃除し続けるっていう状況でした。夜もほとんど交代で掃除をし続けて、すごく大変だったなって思います。
水も贅沢に使えなくて、手も洗えないから、汚れないようにゴミ袋に手を入れて、それで汚物処理をして、その繰り返してみたいな。
聞き手
アルコール消毒をしながらですかね。
側垣さん
そうです。だから自分自身の健康も守らないといけなかったですね。
聞き手
ノロウイルスなども怖いですしね。
側垣さん
あとは粉塵で目や喉を痛める方がいました。私もそうですし、来てくださっていた別の地域の方も痛めておられたので、衛生面というのがこんなに簡単に崩れるんだなということを実感しました。
聞き手
仮設トイレがあったとしても、それをきれいに保つのは大変なのですね。
側垣さん
そうですね。誰かが掃除をし続けないといけない。
お風呂や洗濯について
聞き手
お風呂や洗濯などはどのようにされたんですか。
毛利さん
お風呂に入るためだけに金沢まで行ったり、親戚の家にお風呂だけ借りに行ったりしていました。
側垣さん
あとは羽咋にあるユーフォリア羽咋とか公共施設のお風呂を開放してくださって、そういうのに皆さん行かれていました。
野村さん
町もお風呂を使わせるようにしてくれていました。学校の近くにあるお風呂のアクアパーク シ・オンっていうところは予約制で、朝に整理番号を配っていました。だからお仕事に行く人は並べなかったけど。
聞き手
自衛隊のお風呂は学校の敷地内に置かれたのですか。
中越さん
学校にはないです。
側垣さん
学校にはなかったですが、町内の別の場所にあったので、そこに入っていた方もいらっしゃると思います。
聞き手
避難所の運営をされた皆さんが、お風呂に入れたのは、被災されてから何日後だったんでしょうか。
野村さん
私は4日にお休みをいただいて、金沢まで行きました。
側垣さん
県外から来られたボランティアの方や県外の市役所の方が来てくださって、すごく一生懸命働いてくださったんですけど、自分がお風呂に久しぶりに入ってホッとした時に、支援に来てくれた人たちがずっとお風呂に入られていない事に気が付き、ハッとしました。
皆さん方もやっぱり休んだり、汚れを落としたりっていうことが必要なのに、気が回っていなかった。かなり体力を消耗しながら働いてくださっていたので、お風呂を使えるような機会や場所を考えられたらよかったかもしれないなと思っています。
避難所運営について
聞き手
他の避難所では、名簿というか、誰が来たか書いていたという話をお聞きしたんですけど、こちらでもそういうことをされていましたか。
中越さん
把握しないとダメだなということで、町役場の方がいらっしゃるようになってからは、それに努めましたね。この部屋にはどなたがいるっていうのも、できるだけ早く把握しました。
岡山さん
ご飯を配る時に一緒に名簿を持っていって、書いてもらったりしました。
側垣さん
ただ最初の頃はもうそれどころではなくて、もうすでに人がいたので、とても把握なんてできる状況じゃないのと、何人かだけでのボランティアなので、人手が足りませんでした。それはできる、できないっていうのをその場で話し合って判断していました。
聞き手
保護者の方などにボランティアとして手伝っていただいたこともありましたか。
側垣さん
何名かの方に手伝っていただきましたね。
聞き手
食料は、小規模な避難所だと、各ご家庭から持ち寄ったものでご飯を提供したりもされていましたけど、こちらではどうでしょうか。
側垣さん
1日の晩に、道路状況の確認と、どこか飲み物や食料を買えるところがないか見て回ったんですけど、どこもやっぱりやっていなくて。
中越さん
1日の夜中にファミリーマートの方が棚にある商品を全部持ってきてくださったんです。でも全然数が足りなくて、何人分ぐらいあるから、どんな風に配給しようか、夜中の間に考えて、朝に提供しました。
野村さん
教室ごとに、人数から始めて、徐々に誰がどこにいるかも把握しながら、大体いくつぐらいご飯がいるか、個数を数えながら配っていたんです。
聞き手
足りなかったということは、1つのご家庭に飲料1本とかそういう感じですか。
中越さん
最初は本当に数えて、例えばスティックパンとかの包みは家族で分けていただく形でお願いしました。
聞き手
支援物資が届いたのはいつごろでしょうか。
野村さん
支援物資はいろんなところから来て、毛布や食料を分けていました。翌朝にお茶とおにぎりかカップ麺を朝ご飯として皆さんに配布して。昼食、夕食も配布しています。
岡山さん
個人や企業の方からいただいたものもあります。どれが行政や自衛隊からのもので、どれが企業などからのものだったのかはもうよく分からないですね。いただけるものを受け取って、混乱がないように分けるみたいな感じでした。
聞き手
避難所の状況を行政に連絡しないといけないと思うんですけど、行政との連絡はどのようにされていたんでしょうか。
前田さん
町から3人ぐらい来てくれて、管理はその人たちが主にやってくれていたので、学校の職員はそれをお手伝いするという状況でした。
聞き手
児童の安否確認をしたと資料にありますけど、電話は繋がったのでしょうか。
野村さん
アンケート形式でメール配信にして行いました。1月4日のことです。
側垣さん
保護者さんに送って、98%ぐらいは答えてくださったので、ある程度の確認は取れました。
聞き手
資料に何人もの避難者とあるので、やっぱり人がすごく多かったんですね。
岡山さん
津波が来るかもしれないという情報も、皆さんあまり分からない状態で、とりあえず高いところへ行かなきゃみたいな感じで、続々と人が集まってきました。誰かが駐車場のネットもちゃんと入口のところを開けてくださって、みんなが入れるようになっていました。続々と集まってくるなぁという印象でした。
あとは、ここは暖かいとか、そういう情報が出回ったのか分からないですけど、夜も皆さんここで過ごすという感じでした。
前田さん
割と広いのもあるし、他と比べたら、ここは快適だったんでしょうね。
聞き手
空調はエアコンだけですか。
中越さん
石油ストーブも廊下で使いました。最初に駆けつけてくださった地域の方が、町内のガソリンスタンドに連絡してくれて、1日の11、12時ぐらいに灯油を積んだトラックをこっちに寄せてもらって、本校の石油タンクに全部入れてくれました。
聞き手
カップラーメンを作ったという話もありましたけど、飲み水の確保は問題なかったんですか。
側垣さん
貯水槽に溜まっていた水がなくなってからは、2リットルのペットボトルが届き始めたので、それを皆さんが起き始める前に、みんなでひたすら沸かして、朝を迎えたという形です。
聞き手
皆さん睡眠の時間は取れていましたか。
側垣さん
最初の2日間ぐらいはほとんど寝られなかった。
野村さん
床にヨガマットを敷いて寝ていました。
側垣さん
食料も少なくて、避難されている方に回さなきゃいけないという心理が働いて、自分らも飲み食いしないと大変なんですけど、遠慮が出ちゃって、ほとんど食べていなかった。2日間でチロルチョコ2つとか、そういうのでなんかやっていましたから、あのときは本当にもう疲れましたね。
聞き手
洗い物が出るような食事の提供の仕方はされてないですか。
側垣さん
してないです。
聞き手
プールの水でトイレを流すのはできなかったということでしたが、それから水を運ぶのはやめたんでしょうか。
側垣さん
みんなで分担しながら、リレーで運んだりして、仮設トイレの洗浄に使いました。
聞き手
学校の建物には被害がなかったんですか。
前田さん
おかげさまで、大きいものはなくて、中庭の壁のところが少し壊れたぐらいです。
聞き手
子どもたちは避難所にいても遊びたいと思うんですけど、どうでしたか。
中越さん
こんなに広い学校なんですけど、当初は人で埋め尽くされていましたので、こちらから何か用意したということはなかったですね。
ほとんどの人がお家に帰られた頃に、まだこちらにいらっしゃる方は教室周りで遊んだり、外に出て遊んだりというぐらいのことはありました。
聞き手
避難者の方が多くて、遊ぶようなスペースもなかったと。
中越さん:
最初の2週間ぐらいはそうでしたね。ラウンジルームも1階の教室もワークスペースも、皆さん折り重なるように寝ていました。
聞き手
何かマットなどを敷くということはありましたか。
野村さん
体育館から皆さんがそれぞれ運んでご自身でスペースを確保していました。
岡山さん
お年寄りがいるので借りてもいいですか?みたいに聞かれた時もありました。ただ、それも数が足りなくて、その人にはいいよと言ってしまったけれど、それを見た方からは、そこにあるんだなという風になりましたね。
側垣さん
最初の頃は、床に寝ると体が痛いから、ダンボールないですか?ってよく言われました。それも足りないですし、もともと空き箱があったわけでもないし。
中越さん
割と早い段階で町の保健スタッフの方が様子を見に来て、特にお年寄りや体の都合の悪い方には、仮設のベッドなど必要なものを準備されていましたね。
聞き手
避難者の方から色々と言われることはありましたか。
前田さん
そんなひどいクレームみたいなのはなかったですね。
側垣さん
「人数ぐらいちゃんと把握しとけよ」みたいなことは言われましたけど、そんなことを言われてもという感じですよね。やっぱりみんなストレスが溜まっているから、「そうですね、気をつけます。」って言って対応しました。
支援物資について
聞き手
救援物資も届いていたと思うんですが、それはどこで管理されたんでしょうか。
毛利さん
階段下のいつも物を置いてないスペースを使いました。
野村さん
体育館にも搬入しましたね。
側垣さん
何がいくつ届いたって、最初の頃は仕分けて数も数えていたんですけど、もう対応できなくなるぐらい来ました。
深夜1時ごろに、だいぶ遠くの方から物資を持って来た方もいたんですけど、もう捌けないし、申し訳ないですけど町の方に持っていくようにお願いしました。町に電話して、当直の方に無理を言って預かってもらうこともありました。
聞き手
どんなものが届いていたんですか。
中越さん
炊き出しをしてくれた団体さんから、良かったらどうぞって、町の方々に提供していた雑貨などをそのまま置いていかれたこともあって、これはどうしようってなりました。
岡山さん
ダンボールに何が入っているか分からないと、探すのが大変なんだなってその時思いましたね。
聞き手
今回、避難所で生活されて、欲しいと思ったものはありますか。
側垣さん
発災すぐは、食べ物と飲み物、トイレですね。
聞き手
トイレは、仮設トイレのようなしっかりしたものですか。
岡山さん
トイレのことを回していくのが大変なので、その場をしのぐものでも、すぐに欲しいです。
野村さん
粉で固める簡易トイレとかね。あとは人によってすぐに欲しいものって違うなと思いました。自分だったら食べ物ですけど、赤ちゃんを抱えている人ならミルクとかおむつですよね。おじいちゃん、おばあちゃんだったら、女性だったらとか、それぞれの年代や家庭で欲しいものが違うように感じました。
大変だと感じたこと
聞き手
コロナやインフルも流行っていた時期ですが、手洗いや検温などの対策はされていましたか。
野村さん
してないです。健康状態の確認だけでした。
中越さん
換気を呼びかける放送とか。ゴミ集めとかですね。
野村さん
換気は結構してくれていたような気がします。
側垣さん
人が多すぎて密にならざるをえなくて、コロナまでは考えていられなかったですね。
岡山さん
他の避難所でコロナが出たというのを聞いて、大変だなと思った記憶はあります。
中越さん
ここでは体を冷やすことがなかったのが大きいかもしれない。
聞き手
コロナの陽性者は出ていないんでしょうか。
野村さん
発熱者はいても陰性だったとか、そんな感じでした。
聞き手
先ほど、トイレの処理が大変だったという話もあったと思うんですけど、ほかにも、今まであまり意識していなかったことはありますか。
側垣さん
本当にいろんな人がいて、大変だったのは認知症と思われる方です。どこに行ったか分からなくなったことがあって、迷子になって同じことを何回も何回もいろんな人に聞いて回っていたんです。別で対応した人もその瞬間だけだったら迷子とは分からなくて、よく分からないまま、流され続けていました。そこまで気が回っていなかったけど、誰かが気づかないと、ずっと寒い状況で放置されることになるので。
自転車がなくなったと言うので、一緒に探しに行くけどなくて、ということを何度かお話にきた方もいましたし、家族と一緒に来ても、夜いなくなってしまって、みんなで探した方もいました。そういう方を把握して、皆で見守れる場所に居てもらうことも必要だなと思いました。
建物への出入りについて
側垣さん
あとは、やっぱり衛生管理の点で、最初は緊急時ですから、皆さん土足で入ってもよいことにしたんです。開放して一斉に入ってきたから、ここは入らないで下さいみたいなことも言えず、みんな気にせず土足で入っていました。その後トイレも土足で入って、汚物も踏んでそのまま部屋に戻るみたいな状況だったので、かなり不衛生だったと思うんです。
次があるとしたら、衛生のことやガラスが割れてないかといったことも考えて、土足のエリアと土足禁止の生活エリアを決めることも必要だなと思いました。
聞き手
靴の置き場所とか、対応が難しくなりそうですね。
側垣さん
出入りも最初は色々なところからしていたけど、途中からは制限したんです。
中越さん:
出入りできるような掃き出しの窓が沢山ありまして、車を運動場に停めている方は、正面玄関からじゃなくて、近いところにある窓から入っていました。そのままそこが開けっぱなしになっていて、誰が入ってくるか分からないし、どんなトラブルが起こるか分からないので、窓からは入らないでくださいってことで施錠したんです。
それから、ぎゅうぎゅう詰めになっていた時は、心配をするどころでもなかったんですけど、少し避難者が減ってきた時、性犯罪のようなことが起こらないかという心配もして、ついたてを設置したり、お部屋を移っていただいたりしたこともあります。どこのどなたが来ているのか、確認しながら避難所に入れるのはすごく大事だなと思いました。
加えて、できれば同じ地区の方が同じエリアに避難すれば、先ほどの認知症の方も、私たちは把握できないですけど、近所の方がいれば、あの家のおばあちゃんのことを見てあげないといけないとか、家族じゃなくても分かりますし、そんなこともできれば、もう少し安全になるのかなと思いました。
体育館について
聞き手
学校に多くの方が来られている中で、対応しきれない部分もあったのではないですか。
側垣さん
困ったのはペットを連れて来られる方。気持ちは分かるんだけれども、難しいなと思って、お断りしたこともありました。
岡山さん
最初はお断りしていたけど、途中で階段下をペットのコーナーにしようとなって、そこだけ特別にOKにしましたね。あとは気を使って車の中にいる方もいました。車にいらっしゃる方はペットも一緒の方が多かったような気もしますね。
中越さん
体育館にいた方にも、寒いので教室にどうぞって声をかけても、ペットがいるのでここでいいという方もおられました。
聞き手
体育館に避難されている方もいらっしゃったんですね。
側垣さん
今のような事情や、人が多すぎてとか、体育館の方が静かだからって言うんですけど、ちょっと大丈夫かなと思うぐらい寒くて。私たちも教室の方で精一杯だったから、体育館のことを忘れていることがあって。声掛けしたとき、こんなに寒いんだって思いましたね。
聞き手
体育館は生活されている方と物資を置く場所として利用されていたわけですね。
野村さん
はい。でも途中から体育館は使わなくなりました。
側垣さん
教室のほうに来てもらうようにして。
運営体制について
聞き手
学校を管理されていた教職員の方は何名ですか。
野村さん
最初は6名。2日目からは結構増えて、十人前後でした。
岡山さん
皆さん、最初は被災して大変だったり、違う場所に避難されたりしていたので、交代しながらでしたね。
側垣さん
ご自身が被災されて来られないという方も多々いました。
聞き手
他の自治体やボランティアの方の支援はいつから来られたんですかね。
中越さん:
本当に1日が長くて、まだ2日なんだっていうくらい本当に長く感じていたので、いつからだったかな。
当初いらした町の方も、町の仕事としてではなく、避難してきて、一緒に私たちと動いてくれたっていうのがスタートです。その後、町の方でローテーションを組んで、12時間交代で動き出したのが3日か4日。
岡山さん
最初は誰が誰だか、よく分からなかったです。町の方かと思ったら違うということもありましたね。
中越さん
率先してあれこれ動いてくれていた方がいて、町役場の方だと思っていたら、違っていて、地域の自警団に入っている方だったかと思います。
愛知県の方がいらっしゃった頃には、誰が誰か分からないので、名前が分かるようにしましょうとなりました。
聞き手
そうやってローテーションを組めるようになって、落ち着いたことで、ようやくお風呂に行ったり、休んだりできたんですね。
側垣さん
2日間ほぼ寝ずにやったら、さすがに体力の限界が来ました。3日目は休ませてもらって、12時間ぐらい寝ましたね。
周辺の状況
聞き手
周辺の道路などの安全確認はしましたか。
側垣さん
そこまでは、すぐ確認できてないです。子どもの登下校する道に関しては、正月休みが明けて、職員が出勤した時にみんなで確認しました。
中越さん
職員でエリアごとにグループ分けをして調査しました。それをまとめて、どこがどうなっているというのを保護者さんにメールでお知らせしましたね。
岡山さん
歩いて行って、写真を撮ってマップ上にポイントする感じです。
聞き手
危険だなと思ったところは、通行禁止にするという風なことですかね。
側垣さん
というよりは危険箇所を知らせるためです。危険箇所をグーグルマップで整理して保護者に伝えていました。
中越さん
納屋や蔵が傾いているとか、壁が剥がれて、通学路上で落ちてくる可能性があるとか、登校するときに同じような状況だったら心配なので、こういう場所があるので、気を付けて通るように子どもたちにも教えてくださいということで、情報を集めて保護者さんに配信したんです。
聞き手
結構な広さではないですか。
側垣さん
高浜中全部集めましたね。
聞き手
スクールバスについては。
中越さん:
そこまではやってないです。
学校としての姿勢について
聞き手
次に地震が起きた時、こういう行動をとろうと思ったことはありますか。
前田さん
ここは学校で、子どもたちが学びを進めていかなければならないので、今回の避難所運営の時も、いつから学校として再開するかということを、私たちは一番気にしていました。教室は全部開放して、さっきも言ったように、みんな土足で入ってきて、汚くなってしまっている。そこを何とかして、早く子どもたちが学べる場所に戻さないといけない。
だから、人が減ってきた時には、避難している人には悪いけども、ちょっとずつ下の階に移ってもらうようお願いして、上から順番に部屋を空けていって、最後は町にお願いして別の所へ移ってもらいました。もし次があるとしても、同じように学校としては再開を一番にして考えていくことになります。
側垣さん
避難所として学校を使うなら、再開するためのことも考えて運営する必要があるということです。
聞き手
他の場所では、子どもから大人に、防災意識を広げていきたいという話もありました。いま、学校ではどのようなことをされていますでしょうか。
前田さん
学校側としては、やっぱり被災した子どもたちのメンタルのケアが一番大事です。これは色んな所でも話しているんですけど、例えばヘルメットしなきゃ眠れないという子がいます。なんでかと聞いたら、家の裏が山で、何時崩れてくるか心配だと言うんですね。まだまだ小さい子どもの心の中にはそういうのが残っているんです。
避難訓練など色々なことをしている間に、また思い出して怖くなることもありますから、子どもに寄り添ったやり方を考えないといけないと思っています。
聞き手
今はまだ避難訓練はされていないんでしょうか。
野村さん
火災の訓練とシェイクアウトはしました。
聞き手
シェイクアウトというのはどういうものですか。
側垣さん
警報が鳴って机の下に入るものですね。経験して覚えている子たちはかなり早くて、シェイクアウトに限らず、ちょっとした揺れでも敏感なんです。私たちよりも先に気づいて、パッと机にの下に入って、何かなと思ったら「揺れましたよ先生」って言われたこともあります。
聞き手
そういうことにはどうしても敏感になるし、メンタル面にやはり気をつけなければいけないんですね。
前田さん
起きるものは起きてしまうので、いかに備えていくかが大事だということを、ある方に教えてもらいました。でも、この学校は、もし次何か起こっても提供できるものが無いのは問題です。
側垣さん
志賀町の避難所はここから離れた場所にあるんですけど、そこに行くにもちょっと低い土地を通って、しかも川を越えないといけない。でも津波ってそういうところを通って上がってくるじゃないですか。だから皆さんがここに上がってきたということでもあるんですけど。
その後の教育のことも考えてのことかもしれないんですけど、ここは変わらず避難所に指定されていないんですね。できることとしては、経験も踏まえて、訓練を真剣に行えるように、子どもたちに教育していくことかなと思います。
プライバシーへの配慮
側垣さん
今回はトイレが印象深いですけど、電気が来ていなかったらまた別の必要なものがあったと思います。状況によって本当に違うなと。
避難所の運営で困ったことが一つあって、支援物資を届けてくださるんですけど、中には届けたついでに撮影される方がいたんですよ。私たちもそんなことをすると思ってなくて、避難されている方に直接お渡ししていいですか?みたいに言われて、戸惑いつつも、どうぞって言ったんですけど、SNSで避難所に行ってきました、みたいなのを投稿している若い子たちもいました。
プライバシーとか被災者の気持ちに配慮するべきだと思うんですが、そのときは状況が分からなかったので対応できませんでした。そういった方も来られる場合があると知っておくこと、毅然と対応しないといけないこと、そして支援をする側もそういったことはしないように気を付けることが必要だなと思いました。
聞き手
他の所で、マスコミ対応が大変だったというお話も聞いたんですが、マスコミ関係はどうでしたか。
側垣さん
学校に来た場合は、管理職の先生方にお繋ぎして対応していました。学校の敷地内では許可を得て撮影してくださいという対応ですので特に普段の撮影と変わらなかったと思います。
中越さん:
炊き出しの方も含め、基本的には避難者以外の方は中に入れないというスタンスでしたね。
前田さん:
地震に限らずではありますよね。授業参観に来てSNSにアップする親御さんも居ますし。
聞き手
SNSでのトラブルは何件かあったんですか。
側垣さん
私が対応したのはその1件です。最初は思いのある、いい人たちなんだなって思っていたんですけど、全然子どもたちがいなかったみたいな感じでガッカリして戻ってきて、何のために行ったんだろうと思って、少し悲しかったですね。
前田さん
学校としては、1日の夜に子供が居なくてよかったですけどね。言ったらなんですけど、ここに子供が500人いたらと思うと大変ですよ。
中越さん
大体の子どもたちが家族で一緒にいるような日だったので良かったですけどね。これが家族と離れて、保護者もそれぞれの仕事場で、子どもたちはここにいてとか、ましてやそれが登下校中だったらと思うと、本当にゾッとします。
聞き手
それこそメンタルケアの面で、学校に来づらくなる子もいたかもしれないですね。
側垣さん
県外に避難されて、怖いから戻れないという方は今回もいましたけど、もっと増えていたかもしれない。
中越さん
避難訓練自体が怖いというお子さんもやっぱりいましたしね。避難訓練の放送とか。
側垣さん
ジッパーをギュッと開ける音を、スマホの警戒アラートの鳴り始めみたいだといって怖がる子もいました。
避難のあり方
聞き手
この小学校以外でも、このあたりに避難所を作る必要性はあると思いますか。
側垣さん
どうだろうな。避難所であろうとなかろうと、人が集まってきそうな気がするんですよね。高くて頑丈で、しかも前例ができたので、ここに来たら安心みたいな気持ちが地域住民にあるから、また人が集まるかもしれないですけど、どこを避難所にするかという話は、私たちからはちょっとできないですね。
中越さん
指定避難所じゃないけど、人が集まって後から避難所になったので。
聞き手
災害によって避難する場所が違うので、住民の方も何の場合はどこへっていうことまでは分かっていらっしゃらないんでしょうね。
岡山さん
とりあえず高いところへとなったとき、高いところは学校だなと、皆さん思っているかもしれないです。
前田さん
避難訓練でも、地震が起きたら学校から出るということしかなかったじゃないですか。だけど学校にいるとは限らない、教室にいるとは限らないし、街中を歩いているかもしれないという中で、子どもたちが自分の置かれている状況を考えて、危険を予測したり回避したりする力を育てていくのは、私たちがやっていかないといけない。
結局のところ、命を守るのは自分だから、そういう判断を的確にできるような子どもにしていくこと、そこを目指してやっていかないとダメなんだろうと思います。

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珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

