石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 教育・学校

みなし避難所となった志賀小学校

志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
体験内容
志賀小学校での避難所運営・学校再開
場所 志賀町
聞き取り日 2025年9月5日

地震発生からの流れ

地震が発生してから、学校の鍵を開けるまでの流れを説明していただいてもよろしいですか。

私は、ここから車で 3分ぐらいのところに家があるんですけど、家にいた時に揺れがありました。有事というか、何かあった時に学校に来る人が、志賀町に住んでいる中で何人かいて、私がその中の一人なんですね。お正月で、姉が甥っ子たちを連れてきていて、皆で一緒に、車に乗って学校に来ました。

鍵は皆さんで持っているのですか。

一人一つずつ鍵を持っています。駐車場になんとか駐車して、待機していました。

みなし避難所になった志賀小学校

ここは元々避難所として想定されていたのでしょうか。

地震の避難所にはなっていませんでした。だから避難された方に対する毛布や水などの備蓄も、ここには全くなかった。とにかく津波の恐れがあるということだったから、みんな慌てて、ちょっと高いところにあるこの学校へ来たんです。
もう一つ、この下に志賀高校と志賀中学校もありましたけど、電気がダメだとかいろんな理由で受け入れすることができなかったことも重なって、こちらに集中しました。そんな中で彼女が鍵を開け、みんなが入ってきて、結局、避難所を開設したという流れです。

避難された人数はどのくらいですか。

1日は学校に約700人、駐車場に約100人です。

教室とかワークスペースに人がいました。

車での避難者は、学校の前の駐車場だけで足りたのでしょうか。

運動場も使用しました。

なにか誘導などはされましたか。

私は津波が来てないことを確認してから学校に来たんですけど、来た時には地域住民の方がボランティアで自主的に誘導してくださっていました。おかげで私もスムーズに駐車することが出来ました。

学校では、皆さんどのように避難されていたのか教えていただきたいです。

はじめは体育館が避難場所になっていたんですが、冬場で寒かったので、校舎側も開放されました。

その晩は氷点下2度ほどで、外で泊まられている方も寒くて中に入ってきました。車の表面も凍り付くほど寒かったので、電気があり、暖房が付いていた学校に来られて寝てらっしゃいました。

本来なら、教室は子供の私物もあるし、解放したくはなかったのですが、1階から3階まで全部解放しました。理科室などは危ないので解放していません。

1階は全部埋まって、2階も使いましょうとなり、3階もぽつぽつという感じで少しずつ広げていったというところですね。

避難者の方の区分けは何かされましたか。

避難してすぐの話ではないですが、3階に小さい和室があって、そこは小さい子どもと一緒に来た家族が個別になるようにしました。

それ以外は教室に好きなように入ってもらうような感じですか。?

そうでした。

時期的にコロナやインフルエンザの患者や、また高齢の方もいらっしゃったと思うんですが、そういう方々に対して何か特別な対応は取られていますか。

近くの高齢者施設の方は保健室に入りました。

トイレが近いので1階にということで、職員室とトイレの近くの部屋はそういった方々に譲る形で移動をお願いしました。あと、あの時はそんなに確認はできなかったけれど、感染症の疑いがある人もいたので、個室みたいなところに入ってもらって、あとは病院に行ってもらう形を取ったと思います。

具合が悪そうな方は同じところに集めていたということでしょうか。

たくさんいたわけじゃなく、私が見たのは 1人だけで、その方もすぐいなくなられました。その方がその後どうなったかは、ちょっと分からないですね。

他の避難所では、車で来られた方々が2~3日の時点で、ご自宅だったり、金沢の家に帰られたりというお話も聞いたんですが、どうでしたか。

駐車場は確かに減ってはいきました。確か途中で計った時は500人ぐらいだったはずです。

3日ぐらいから、戻っても大丈夫そうだし、自宅の片付けをしながら、夜は怖いので、夜寝る時だけこっちに来るという方がたくさんいました。

トイレについて

電気は通っていたという話ですけど、水道はどうでしたか。

水道は止まりました。

学校の貯水槽があって、その中に溜まっていた水を使ったんですが、それも1日目の晩にはなくなりました。量が少なくなったところからトイレで大変なことが起こったんです

2階と3階のトイレは貯水槽からの水があったので使える。そうすると皆さん水が使えるんだと思って、1階のトイレも使うんですけど、1階は町の水道管から直接なので実は使えなかったんです。みんな使えると思って使って、流れない。それで大変なことになりましたね。

大掃除が始まりました。

その掃除は職員さんがされたのですか。

はい。当時ボランティアで来てくださった皆さんとか、お手伝いを呼び掛けて来てもらった方にもやっていただきました。

掃除の前に、プールの水をバケツで汲んで流せばどうだろうかということで、学校中のバケツを集めて、みんなで汲んでやってみましたが、それでも詰まってしまって、全然うまくいきませんでしたね。

下水道は問題なかったのでしょうか。

それが確認できなくて、怖くて流せないっていうのもありました。

水が溢れると処理が大変だから、申し訳ないけど使わないで下さいということにしました。簡易トイレはいつからありましたかね。

1月1日に水道が復旧しないので簡易トイレが設置されたと記録にあります。

帰省されていたどこかの学校の保健の先生が、トイレは絶対きれいに保っておかないといけない、土足だし、このままだと衛生的に大変なことになるとおっしゃって、保育士さんとか、処理ができそうな方に声をかけて、有志で簡易トイレの設置をしました。仮設のトイレが来るまではありましたね。

ゴミ袋を敷いて、そのゴミ袋の上の部分だけを取り替えれば常に綺麗に使えるということを教えてもらって、学校中で設置した記憶があります。

仮設のトイレは行政の方にお願いして設置してもらったのですか。

誰かが電話して、手配してくれました。

小学校なので、かなり数はあったんですかね。

たしか10個くらいです。

それが来るまで本当に大変でしたね。地獄みたいでした。

仮設の設置が 3日って書いてあるので、多分1、2日はトイレの掃除をしていました。

トイレのことで気づいたんですけど、やっぱり年齢によってやりやすいトイレとやりにくいトイレがあるんですね。よく工事現場に置いてあるようなものだと、狭かったり、階段を上れなかったり、和式じゃ無理という方もたくさんおられて、洋式に対応したものをお願いして、持ってきていただいたのもあるし、取りに行ったのもあります。
学校のトイレも、簡易トイレは設置したんですけど、結局個室の中自体はそんなに広くないので、やっぱりやりにくいんでしょうね。どうしても1人ではきれいに処理ができないので、もう本当にすぐ汚れて、2~3時間に一回は手が空いている人でトイレを回って掃除し続けるっていう状況でした。夜もほとんど交代で掃除をし続けて、すごく大変だったなって思います。
水も贅沢に使えなくて、手も洗えないから、汚れないようにゴミ袋に手を入れて、それで汚物処理をして、その繰り返してみたいな。

アルコール消毒をしながらですかね。

そうです。だから自分自身の健康も守らないといけなかったですね。

ノロウイルスなども怖いですしね。

あとは粉塵で目や喉を痛める方がいました。私もそうですし、来てくださっていた別の地域の方も痛めておられたので、衛生面というのがこんなに簡単に崩れるんだなということを実感しました。

仮設トイレがあったとしても、それをきれいに保つのは大変なのですね。

そうですね。誰かが掃除をし続けないといけない。

お風呂や洗濯について

お風呂や洗濯などはどのようにされたんですか。

お風呂に入るためだけに金沢まで行ったり、親戚の家にお風呂だけ借りに行ったりしていました。

あとは羽咋にあるユーフォリア羽咋とか公共施設のお風呂を開放してくださって、そういうのに皆さん行かれていました。

町もお風呂を使わせるようにしてくれていました。学校の近くにあるお風呂のアクアパーク シ・オンっていうところは予約制で、朝に整理番号を配っていました。だからお仕事に行く人は並べなかったけど。

自衛隊のお風呂は学校の敷地内に置かれたのですか。

学校にはないです。

学校にはなかったですが、町内の別の場所にあったので、そこに入っていた方もいらっしゃると思います。

避難所の運営をされた皆さんが、お風呂に入れたのは、被災されてから何日後だったんでしょうか。

私は4日にお休みをいただいて、金沢まで行きました。

県外から来られたボランティアの方や県外の市役所の方が来てくださって、すごく一生懸命働いてくださったんですけど、自分がお風呂に久しぶりに入ってホッとした時に、支援に来てくれた人たちがずっとお風呂に入られていない事に気が付き、ハッとしました。
皆さん方もやっぱり休んだり、汚れを落としたりっていうことが必要なのに、気が回っていなかった。かなり体力を消耗しながら働いてくださっていたので、お風呂を使えるような機会や場所を考えられたらよかったかもしれないなと思っています。

避難所運営について

他の避難所では、名簿というか、誰が来たか書いていたという話をお聞きしたんですけど、こちらでもそういうことをされていましたか。

把握しないとダメだなということで、町役場の方がいらっしゃるようになってからは、それに努めましたね。この部屋にはどなたがいるっていうのも、できるだけ早く把握しました。

ご飯を配る時に一緒に名簿を持っていって、書いてもらったりしました。

ただ最初の頃はもうそれどころではなくて、もうすでに人がいたので、とても把握なんてできる状況じゃないのと、何人かだけでのボランティアなので、人手が足りませんでした。それはできる、できないっていうのをその場で話し合って判断していました。

保護者の方などにボランティアとして手伝っていただいたこともありましたか。

何名かの方に手伝っていただきましたね。

食料は、小規模な避難所だと、各ご家庭から持ち寄ったものでご飯を提供したりもされていましたけど、こちらではどうでしょうか。

1日の晩に、道路状況の確認と、どこか飲み物や食料を買えるところがないか見て回ったんですけど、どこもやっぱりやっていなくて。

1日の夜中にファミリーマートの方が棚にある商品を全部持ってきてくださったんです。でも全然数が足りなくて、何人分ぐらいあるから、どんな風に配給しようか、夜中の間に考えて、朝に提供しました

教室ごとに、人数から始めて、徐々に誰がどこにいるかも把握しながら、大体いくつぐらいご飯がいるか、個数を数えながら配っていたんです。

足りなかったということは、1つのご家庭に飲料1本とかそういう感じですか。

最初は本当に数えて、例えばスティックパンとかの包みは家族で分けていただく形でお願いしました。

支援物資が届いたのはいつごろでしょうか。

支援物資はいろんなところから来て、毛布や食料を分けていました。翌朝にお茶とおにぎりかカップ麺を朝ご飯として皆さんに配布して。昼食、夕食も配布しています。

個人や企業の方からいただいたものもあります。どれが行政や自衛隊からのもので、どれが企業などからのものだったのかはもうよく分からないですね。いただけるものを受け取って、混乱がないように分けるみたいな感じでした。

避難所の状況を行政に連絡しないといけないと思うんですけど、行政との連絡はどのようにされていたんでしょうか。

町から3人ぐらい来てくれて、管理はその人たちが主にやってくれていたので、学校の職員はそれをお手伝いするという状況でした。

児童の安否確認をしたと資料にありますけど、電話は繋がったのでしょうか。

アンケート形式でメール配信にして行いました。1月4日のことです。

保護者さんに送って、98%ぐらいは答えてくださったので、ある程度の確認は取れました。

資料に何人もの避難者とあるので、やっぱり人がすごく多かったんですね。

津波が来るかもしれないという情報も、皆さんあまり分からない状態で、とりあえず高いところへ行かなきゃみたいな感じで、続々と人が集まってきました。誰かが駐車場のネットもちゃんと入口のところを開けてくださって、みんなが入れるようになっていました。続々と集まってくるなぁという印象でした。
あとは、ここは暖かいとか、そういう情報が出回ったのか分からないですけど、夜も皆さんここで過ごすという感じでした。

割と広いのもあるし、他と比べたら、ここは快適だったんでしょうね。

空調はエアコンだけですか。

石油ストーブも廊下で使いました。最初に駆けつけてくださった地域の方が、町内のガソリンスタンドに連絡してくれて、1日の11、12時ぐらいに灯油を積んだトラックをこっちに寄せてもらって、本校の石油タンクに全部入れてくれました。

カップラーメンを作ったという話もありましたけど、飲み水の確保は問題なかったんですか。

貯水槽に溜まっていた水がなくなってからは、2リットルのペットボトルが届き始めたので、それを皆さんが起き始める前に、みんなでひたすら沸かして、朝を迎えたという形です。

皆さん睡眠の時間は取れていましたか。

最初の2日間ぐらいはほとんど寝られなかった

床にヨガマットを敷いて寝ていました。

食料も少なくて、避難されている方に回さなきゃいけないという心理が働いて、自分らも飲み食いしないと大変なんですけど、遠慮が出ちゃって、ほとんど食べていなかった。2日間でチロルチョコ2つとか、そういうのでなんかやっていましたから、あのときは本当にもう疲れましたね。

洗い物が出るような食事の提供の仕方はされてないですか。

してないです。

プールの水でトイレを流すのはできなかったということでしたが、それから水を運ぶのはやめたんでしょうか。

みんなで分担しながら、リレーで運んだりして、仮設トイレの洗浄に使いました。

学校の建物には被害がなかったんですか。

おかげさまで、大きいものはなくて、中庭の壁のところが少し壊れたぐらいです。

子どもたちは避難所にいても遊びたいと思うんですけど、どうでしたか。

こんなに広い学校なんですけど、当初は人で埋め尽くされていましたので、こちらから何か用意したということはなかったですね。
ほとんどの人がお家に帰られた頃に、まだこちらにいらっしゃる方は教室周りで遊んだり、外に出て遊んだりというぐらいのことはありました。

避難者の方が多くて、遊ぶようなスペースもなかったと。

最初の2週間ぐらいはそうでしたね。ラウンジルームも1階の教室もワークスペースも、皆さん折り重なるように寝ていました

何かマットなどを敷くということはありましたか。

体育館から皆さんがそれぞれ運んでご自身でスペースを確保していました。

お年寄りがいるので借りてもいいですか?みたいに聞かれた時もありました。ただ、それも数が足りなくて、その人にはいいよと言ってしまったけれど、それを見た方からは、そこにあるんだなという風になりましたね。

最初の頃は、床に寝ると体が痛いから、ダンボールないですか?ってよく言われました。それも足りないですし、もともと空き箱があったわけでもないし。

割と早い段階で町の保健スタッフの方が様子を見に来て、特にお年寄りや体の都合の悪い方には、仮設のベッドなど必要なものを準備されていましたね。

避難者の方から色々と言われることはありましたか。

そんなひどいクレームみたいなのはなかったですね。

「人数ぐらいちゃんと把握しとけよ」みたいなことは言われましたけど、そんなことを言われてもという感じですよね。やっぱりみんなストレスが溜まっているから、「そうですね、気をつけます。」って言って対応しました。

支援物資について

救援物資も届いていたと思うんですが、それはどこで管理されたんでしょうか。

階段下のいつも物を置いてないスペースを使いました。

体育館にも搬入しましたね。

何がいくつ届いたって、最初の頃は仕分けて数も数えていたんですけど、もう対応できなくなるぐらい来ました
深夜1時ごろに、だいぶ遠くの方から物資を持って来た方もいたんですけど、もう捌けないし、申し訳ないですけど町の方に持っていくようにお願いしました。町に電話して、当直の方に無理を言って預かってもらうこともありました。

どんなものが届いていたんですか。

炊き出しをしてくれた団体さんから、良かったらどうぞって、町の方々に提供していた雑貨などをそのまま置いていかれたこともあって、これはどうしようってなりました。

ダンボールに何が入っているか分からないと、探すのが大変なんだなってその時思いましたね。

今回、避難所で生活されて、欲しいと思ったものはありますか。

発災すぐは、食べ物と飲み物、トイレですね。

トイレは、仮設トイレのようなしっかりしたものですか。

トイレのことを回していくのが大変なので、その場をしのぐものでも、すぐに欲しいです。

粉で固める簡易トイレとかね。あとは人によってすぐに欲しいものって違うなと思いました。自分だったら食べ物ですけど、赤ちゃんを抱えている人ならミルクとかおむつですよね。おじいちゃん、おばあちゃんだったら、女性だったらとか、それぞれの年代や家庭で欲しいものが違うように感じました。

大変だと感じたこと

コロナやインフルも流行っていた時期ですが、手洗いや検温などの対策はされていましたか。

してないです。健康状態の確認だけでした。

換気を呼びかける放送とか。ゴミ集めとかですね。

換気は結構してくれていたような気がします。

人が多すぎて密にならざるをえなくて、コロナまでは考えていられなかったですね。

他の避難所でコロナが出たというのを聞いて、大変だなと思った記憶はあります。

ここでは体を冷やすことがなかったのが大きいかもしれない。

コロナの陽性者は出ていないんでしょうか。

発熱者はいても陰性だったとか、そんな感じでした。

先ほど、トイレの処理が大変だったという話もあったと思うんですけど、ほかにも、今まであまり意識していなかったことはありますか。

本当にいろんな人がいて、大変だったのは認知症と思われる方です。どこに行ったか分からなくなったことがあって、迷子になって同じことを何回も何回もいろんな人に聞いて回っていたんです。別で対応した人もその瞬間だけだったら迷子とは分からなくて、よく分からないまま、流され続けていました。そこまで気が回っていなかったけど、誰かが気づかないと、ずっと寒い状況で放置されることになるので。
自転車がなくなったと言うので、一緒に探しに行くけどなくて、ということを何度かお話にきた方もいましたし、家族と一緒に来ても、夜いなくなってしまって、みんなで探した方もいました。そういう方を把握して、皆で見守れる場所に居てもらうことも必要だなと思いました。

建物への出入りについて

あとは、やっぱり衛生管理の点で、最初は緊急時ですから、皆さん土足で入ってもよいことにしたんです。開放して一斉に入ってきたから、ここは入らないで下さいみたいなことも言えず、みんな気にせず土足で入っていました。その後トイレも土足で入って、汚物も踏んでそのまま部屋に戻るみたいな状況だったので、かなり不衛生だったと思うんです。
次があるとしたら、衛生のことやガラスが割れてないかといったことも考えて、土足のエリアと土足禁止の生活エリアを決めることも必要だなと思いました。

靴の置き場所とか、対応が難しくなりそうですね。

出入りも最初は色々なところからしていたけど、途中からは制限したんです。

出入りできるような掃き出しの窓が沢山ありまして、車を運動場に停めている方は、正面玄関からじゃなくて、近いところにある窓から入っていました。そのままそこが開けっぱなしになっていて、誰が入ってくるか分からないし、どんなトラブルが起こるか分からないので、窓からは入らないでくださいってことで施錠したんです。
それから、ぎゅうぎゅう詰めになっていた時は、心配をするどころでもなかったんですけど、少し避難者が減ってきた時、性犯罪のようなことが起こらないかという心配もして、ついたてを設置したり、お部屋を移っていただいたりしたこともあります。どこのどなたが来ているのか、確認しながら避難所に入れるのはすごく大事だなと思いました。
加えて、できれば同じ地区の方が同じエリアに避難すれば、先ほどの認知症の方も、私たちは把握できないですけど、近所の方がいれば、あの家のおばあちゃんのことを見てあげないといけないとか、家族じゃなくても分かりますし、そんなこともできれば、もう少し安全になるのかなと思いました。

体育館について

学校に多くの方が来られている中で、対応しきれない部分もあったのではないですか。

困ったのはペットを連れて来られる方。気持ちは分かるんだけれども、難しいなと思って、お断りしたこともありました。

最初はお断りしていたけど、途中で階段下をペットのコーナーにしようとなって、そこだけ特別にOKにしましたね。あとは気を使って車の中にいる方もいました。車にいらっしゃる方はペットも一緒の方が多かったような気もしますね。

体育館にいた方にも、寒いので教室にどうぞって声をかけても、ペットがいるのでここでいいという方もおられました。

体育館に避難されている方もいらっしゃったんですね。

今のような事情や、人が多すぎてとか、体育館の方が静かだからって言うんですけど、ちょっと大丈夫かなと思うぐらい寒くて。私たちも教室の方で精一杯だったから、体育館のことを忘れていることがあって。声掛けしたとき、こんなに寒いんだって思いましたね。

体育館は生活されている方と物資を置く場所として利用されていたわけですね。

はい。でも途中から体育館は使わなくなりました。

教室のほうに来てもらうようにして。

運営体制について

学校を管理されていた教職員の方は何名ですか。

最初は6名。2日目からは結構増えて、十人前後でした。

皆さん、最初は被災して大変だったり、違う場所に避難されたりしていたので、交代しながらでしたね。

ご自身が被災されて来られないという方も多々いました。

他の自治体やボランティアの方の支援はいつから来られたんですかね。

本当に1日が長くて、まだ2日なんだっていうくらい本当に長く感じていたので、いつからだったかな。
当初いらした町の方も、町の仕事としてではなく、避難してきて、一緒に私たちと動いてくれたっていうのがスタートです。その後、町の方でローテーションを組んで、12時間交代で動き出したのが3日か4日。

最初は誰が誰だか、よく分からなかったです。町の方かと思ったら違うということもありましたね。

率先してあれこれ動いてくれていた方がいて、町役場の方だと思っていたら、違っていて、地域の自警団に入っている方だったかと思います。
愛知県の方がいらっしゃった頃には、誰が誰か分からないので、名前が分かるようにしましょうとなりました。

そうやってローテーションを組めるようになって、落ち着いたことで、ようやくお風呂に行ったり、休んだりできたんですね。

2日間ほぼ寝ずにやったら、さすがに体力の限界が来ました。3日目は休ませてもらって、12時間ぐらい寝ましたね。

周辺の状況

周辺の道路などの安全確認はしましたか。

そこまでは、すぐ確認できてないです。子どもの登下校する道に関しては、正月休みが明けて、職員が出勤した時にみんなで確認しました。

職員でエリアごとにグループ分けをして調査しました。それをまとめて、どこがどうなっているというのを保護者さんにメールでお知らせしましたね。

歩いて行って、写真を撮ってマップ上にポイントする感じです。

危険だなと思ったところは、通行禁止にするという風なことですかね。

というよりは危険箇所を知らせるためです。危険箇所をグーグルマップで整理して保護者に伝えていました

納屋や蔵が傾いているとか、壁が剥がれて、通学路上で落ちてくる可能性があるとか、登校するときに同じような状況だったら心配なので、こういう場所があるので、気を付けて通るように子どもたちにも教えてくださいということで、情報を集めて保護者さんに配信したんです。

結構な広さではないですか。

高浜中全部集めましたね。

スクールバスについては。

そこまではやってないです。

学校としての姿勢について

次に地震が起きた時、こういう行動をとろうと思ったことはありますか。

ここは学校で、子どもたちが学びを進めていかなければならないので、今回の避難所運営の時も、いつから学校として再開するかということを、私たちは一番気にしていました。教室は全部開放して、さっきも言ったように、みんな土足で入ってきて、汚くなってしまっている。そこを何とかして、早く子どもたちが学べる場所に戻さないといけない。
だから、人が減ってきた時には、避難している人には悪いけども、ちょっとずつ下の階に移ってもらうようお願いして、上から順番に部屋を空けていって、最後は町にお願いして別の所へ移ってもらいました。もし次があるとしても、同じように学校としては再開を一番にして考えていくことになります。

避難所として学校を使うなら、再開するためのことも考えて運営する必要があるということです。

他の場所では、子どもから大人に、防災意識を広げていきたいという話もありました。いま、学校ではどのようなことをされていますでしょうか。

学校側としては、やっぱり被災した子どもたちのメンタルのケアが一番大事です。これは色んな所でも話しているんですけど、例えばヘルメットしなきゃ眠れないという子がいます。なんでかと聞いたら、家の裏が山で、何時崩れてくるか心配だと言うんですね。まだまだ小さい子どもの心の中にはそういうのが残っているんです。
避難訓練など色々なことをしている間に、また思い出して怖くなることもありますから、子どもに寄り添ったやり方を考えないといけないと思っています。

今はまだ避難訓練はされていないんでしょうか。

火災の訓練とシェイクアウトはしました。

シェイクアウトというのはどういうものですか。

警報が鳴って机の下に入るものですね。経験して覚えている子たちはかなり早くて、シェイクアウトに限らず、ちょっとした揺れでも敏感なんです。私たちよりも先に気づいて、パッと机にの下に入って、何かなと思ったら「揺れましたよ先生」って言われたこともあります。

そういうことにはどうしても敏感になるし、メンタル面にやはり気をつけなければいけないんですね。

起きるものは起きてしまうので、いかに備えていくかが大事だということを、ある方に教えてもらいました。でも、この学校は、もし次何か起こっても提供できるものが無いのは問題です。

志賀町の避難所はここから離れた場所にあるんですけど、そこに行くにもちょっと低い土地を通って、しかも川を越えないといけない。でも津波ってそういうところを通って上がってくるじゃないですか。だから皆さんがここに上がってきたということでもあるんですけど。
その後の教育のことも考えてのことかもしれないんですけど、ここは変わらず避難所に指定されていないんですね。できることとしては、経験も踏まえて、訓練を真剣に行えるように、子どもたちに教育していくことかなと思います。

プライバシーへの配慮

今回はトイレが印象深いですけど、電気が来ていなかったらまた別の必要なものがあったと思います。状況によって本当に違うなと。
避難所の運営で困ったことが一つあって、支援物資を届けてくださるんですけど、中には届けたついでに撮影される方がいたんですよ。私たちもそんなことをすると思ってなくて、避難されている方に直接お渡ししていいですか?みたいに言われて、戸惑いつつも、どうぞって言ったんですけど、SNSで避難所に行ってきました、みたいなのを投稿している若い子たちもいました。
プライバシーとか被災者の気持ちに配慮するべきだと思うんですが、そのときは状況が分からなかったので対応できませんでした。そういった方も来られる場合があると知っておくこと、毅然と対応しないといけないこと、そして支援をする側もそういったことはしないように気を付けることが必要だなと思いました。

他の所で、マスコミ対応が大変だったというお話も聞いたんですが、マスコミ関係はどうでしたか。

学校に来た場合は、管理職の先生方にお繋ぎして対応していました。学校の敷地内では許可を得て撮影してくださいという対応ですので特に普段の撮影と変わらなかったと思います。

炊き出しの方も含め、基本的には避難者以外の方は中に入れないというスタンスでしたね。

地震に限らずではありますよね。授業参観に来てSNSにアップする親御さんも居ますし。

SNSでのトラブルは何件かあったんですか。

私が対応したのはその1件です。最初は思いのある、いい人たちなんだなって思っていたんですけど、全然子どもたちがいなかったみたいな感じでガッカリして戻ってきて、何のために行ったんだろうと思って、少し悲しかったですね。

学校としては、1日の夜に子供が居なくてよかったですけどね。言ったらなんですけど、ここに子供が500人いたらと思うと大変ですよ。

大体の子どもたちが家族で一緒にいるような日だったので良かったですけどね。これが家族と離れて、保護者もそれぞれの仕事場で、子どもたちはここにいてとか、ましてやそれが登下校中だったらと思うと、本当にゾッとします。

それこそメンタルケアの面で、学校に来づらくなる子もいたかもしれないですね。

県外に避難されて、怖いから戻れないという方は今回もいましたけど、もっと増えていたかもしれない。

避難訓練自体が怖いというお子さんもやっぱりいましたしね。避難訓練の放送とか。

ジッパーをギュッと開ける音を、スマホの警戒アラートの鳴り始めみたいだといって怖がる子もいました。

避難のあり方

この小学校以外でも、このあたりに避難所を作る必要性はあると思いますか。

どうだろうな。避難所であろうとなかろうと、人が集まってきそうな気がするんですよね。高くて頑丈で、しかも前例ができたので、ここに来たら安心みたいな気持ちが地域住民にあるから、また人が集まるかもしれないですけど、どこを避難所にするかという話は、私たちからはちょっとできないですね。

指定避難所じゃないけど、人が集まって後から避難所になったので。

災害によって避難する場所が違うので、住民の方も何の場合はどこへっていうことまでは分かっていらっしゃらないんでしょうね。

とりあえず高いところへとなったとき、高いところは学校だなと、皆さん思っているかもしれないです。

避難訓練でも、地震が起きたら学校から出るということしかなかったじゃないですか。だけど学校にいるとは限らない、教室にいるとは限らないし、街中を歩いているかもしれないという中で、子どもたちが自分の置かれている状況を考えて、危険を予測したり回避したりする力を育てていくのは、私たちがやっていかないといけない
結局のところ、命を守るのは自分だから、そういう判断を的確にできるような子どもにしていくこと、そこを目指してやっていかないとダメなんだろうと思います。

志賀小学校の皆さんと

伝える