体験を語る
- ボランティア
民間の災害ボランティアセンターを立ち上げ、七尾の被災者を支援

| 場所 | 七尾市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月18日 |
ご自身のこと
一般社団法人sien sien westという団体の代表理事を務めており、現在は七尾で、民間災害ボランティアセンター「おらっちゃ七尾」を運営しています。
「おらっちゃ」とは能登弁で「私たち(の)」という意味です。そこでいろんな支援をするボランティアさんを受け入れています。七尾市の社協さんが運営しているボランティアセンターが閉じてしまったので、その代わりに、私たちの団体が民間で災害ボランティアセンターを開設して、七尾市全域で、被災したお宅の片付けや、仮設住宅への支援を行っています。
並行して、地域の在宅避難者を対象に、1軒1軒、生活の再建状況の確認を行っています。
七尾市での活動開始まで
私は七尾の出身ではなく、地元は大阪になります。2014年に広島で豪雨土砂災害があり、そこでボランティアリーダーをしてから、災害支援の業界に関わるようになりました。
災害が起こるたびに全国各地に駆けつけていて、長いときは3年ほど現地に住みながら、全国10カ所以上で災害対応や被災者支援を行ってきました。
七尾に来る前は、2020年に水害があった熊本県の人吉市で活動しており、並行して、佐賀県にある中間支援組織(行政や企業などと、NPOなどの支援団体との間に入って、連携を支援する組織)にも関わっていました。
また、佐賀では日本財団の災害支援研修センターの立ち上げにも携わり、災害支援に関わる人を養成するための研修の企画と運営も担当していました。
2023年の12月には、熊本での災害支援が落ち着き、佐賀でアパートを借りて、住所も移していました。
2024年の1月1日に能登で震災が発生し、団体のメンバーが1月3日に七尾に入ったことをきっかけに、七尾を拠点に物資を運ぶ活動が始まっていました。そうしたつながりができたこともあって、私も佐賀での仕事を整理して、1月7日に七尾に来ました。
そのときは、七尾に拠点を置くことはまだ決まっていませんでした。まず被災地を視察しながら、どのような支援が必要なのか確認したんです。珠洲を視察したときには、家の倒壊が非常に多く、これまで多くの被災地で活動してきた自分でも、久しぶりに心が苦しくなる光景を見ました。
まず、道路が正常な状態ではない中でしたが、各地の避難所を支援しました。毎朝、七尾から能登町、珠洲市を回り、夕方には七尾に戻って、金沢に泊まるという繰り返しです。
作業内容をあらかじめ決めてしまうと、それ以外のことができなくなってしまうため、そのときは、長期的に何をするかは決めずに、その場所で困っていることに対応しようと考えていました。
ある避難所では、100人規模が避難しており、せっかく守られた命を避難所での二次災害のリスクから守るための支援が必要でした。現地を確認した上で、ダンボールベッドの導入を訴えかけましたが、なかなか理解してもらうこうとができませんでした。
能登町の支援団体の拠点では、水道が使えませんでしたが、井戸水は利用できたので、水道を引く工事をしました。支援団体がそこで活動できるようになると、多くの人が集まりました。
七尾市の自主避難所では、日中は自宅に戻っている方もいて、昼と夜で人数が変わり、おおよその人数しか把握できていなかったと感じています。避難所の運営側は、できるだけ早期の閉鎖を希望していて、避難者に次の住まいが見つかっていないのか、帰宅できないのかを把握されていたので、例えば、家の片付けが終われば帰宅可能だという状況が分かれば、運営側から私たちにその支援を依頼する。そうした相談の流れが生まれました。
放置されていたテレビがあるのに気づき、テレビも使用の目的と状況を自主避難所の運営に確認をとった上で、アンテナ線の工事を行い、避難所でテレビの視聴環境を整備するなどの取り組みも行いましたし、仮設トイレの設置など、その場所が円滑に機能するよう、何をすべきかを考え、物資の配送や工事など、その時できるさまざまな活動を行いました。
そうして、被災地を回っていると、能登や珠洲、穴水には、知っている支援団体の仲間たちが入っていました。しかし、七尾には知っている支援団体が全くいません。そのため、もしかすると七尾での支援が遅れてしまうかもしれないと感じました。
七尾ではメインの通りこそ被害が少なく見えましたが、道路1本、中に入ると倒壊している家もあり、100人以上が避難している避難所もある。店舗は営業しており、電気も通っているが、水道は復旧していない。
決して被害がないわけではないと分かりましたし、いずれ避難所が閉鎖されても、すぐに仮設住宅ができるわけではなく、避難所にいた方々が自宅に戻ると、一人一人の生活状況が見えにくくなるのではないかという不安がありました。そうした状況を支援する民間の団体がまだ入っていなかったので、ここに残って活動しようと思ったのです。
また、七尾市石崎町にある石崎小学校が自主避難所になっていて、地域の方々が約100人の避難者を支援していました。そこで感染症が発生したため、感染者のためのスペースを設けるお手伝いをしたんです。それをきっかけに、石崎で活動を続けていこうと決めました。
佐賀から七尾に来て、能登を回り、七尾市の石崎町を拠点に支援を始めたというのが、1月7日からおよそ1週間の間にあった一連の流れです。
七尾市に来る前の準備や心構え
七尾に来る前は、能登町で活動している団体などから、奥能登に関する情報が多く入っていたため、私は、七尾ではなく奥能登で支援活動を行うべきだと考えて、奥能登での活動の体制を整えていたんです。
現地入りしたメンバーに能登町まで物資を運ぶことができるか尋ねましたが、被災地支援や運転に慣れていなかったため、途中で引き返さざるを得なかった。
他団体では能登町や珠洲まで入っていたので、道路は通行できたのですが、被災地に慣れていない人にとっては、道路状況が厳しく、怖さを感じる部分もあったのだろうと思います。
寝袋や簡易トイレ、水分、食料など最低限の準備をして出発したという状況です。奥能登での活動に向けた準備で能登に向かいましたが、結果的には、当時勤めていた佐賀県の中間支援組織を通じて、県庁に行く機会が多くあったことで、金沢での宿泊が多くなり、全く異なる状況になりました。
多くの支援団体が七尾市を通過点として移動していきましたが、先発して七尾で活動をした仲間から「七尾も被害が大きい」という話が届いていたことで、細かく見て回らないと見過ごしてしまう、現地を丁寧に確認しようという心構えでいました。
活動当初の状況
最初、自主避難所には、行政の方が入らず、地域の方々が運営していたので、そのサポートをしていたんです。
感染症が発生した際も、地域の高齢のお母さん方が対応していたため、さらに感染が広がる可能性があった。そのため、県や七尾市に相談に行き、保健師さんが巡回できないかお願いして、最初のうちは対応が難しい状況でしたが、途中からは保健師さんが定期的に来てくださるようになりました。
物資は毎日、様々な方から届いていましたが、足りないものは私たちで購入して届けていました。また、知り合いの支援団体の倉庫が七尾にあり、そこに行って必要なものだけを持ってくるようにしていました。
避難所の支援を続けているうちに、石崎町の町内会長さんから、倒れたブロック塀の撤去や家の中の片付けなどについて相談を受けたんです。最初は1人で対応していましたが、作業が増えて対応が難しくなり、ボランティアを受け入れる拠点が必要だと感じました。
当時は宿泊先がなく、支援者の皆さんが車中泊をしたり、高岡や金沢で宿泊したりしていました。そのため、ボランティアが滞在できる場所や活動の拠点となる場所を探していたんです。
閉園した保育園を紹介していただき、そこを拠点として使わせていただくことになりました。敷地内にテントを設置し、ボランティアの皆さんが夜はそこに寝泊まりできるように整備しました。日中は、七尾市石崎町内で片付けや家具の搬出、倒壊・傾いたブロック塀の解体や撤去などの作業を始めました。
民間災害ボランティアセンターの立ち上げ
そうして7月ごろまで活動を続けていたのですが、途中で、七尾市全域でブロック塀の解体や倒れた灯籠の撤去などを行う「七尾技術チーム」というグループのリーダーが怪我をされて、代表代理を務めることになりました。そこから活動が七尾市全域に広がっていきます。
同時期に、七尾市の災害ごみ仮置き場が閉鎖されて、市民がごみを持ち込む場所がなくなりました。また、七尾市社会福祉協議会が運営していた災害ボランティアセンターも閉鎖され、相談対応は続けていたものの、市民が作業を依頼できる場所がほとんどなくなってしまった。
私が七尾市全域で技術系の作業を行っている中で、解体作業が始まる家も増え、家の中の物を出してほしいという相談も多く寄せられていました。
被害件数の多さを考えると、これは一部の人の問題ではなく、今後、解体作業が本格化すれば、同様の依頼はさらに増えると感じていました。
社協さんや七尾市さんにも「もう一度ボランティアセンターを開設できないでしょうか」とお願いしましたが、実現は難しい状況で、「難しいなら、民間で立ち上げるしかない」と思い、私が手を挙げて動き出しました。それが8月の終わりごろのことです。
それから様々な準備を行い、10月11日に民間の災害ボランティアセンター「おらっちゃ七尾」を開所しました。
技術系の作業や家財の搬出といった作業系の支援のほか、拠点内や仮設住宅、地域の集会所、コミュニティセンターで、イベントやマッサージ、お茶会などのソフト系の支援も行っています。
さらに、昨年10月から、ローラー訪問活動として、在宅避難者の生活再建状況の確認も行ってきました。石崎で始まった活動が、今では七尾市全域に広がっています。
災害発生直後に、団体や個人の方が、ボランティアや物資の支援のために現地に向かうことについて
専門的な技術や知識、ノウハウを持っている支援団体と、そうではない個人や団体を別々に考える必要があると思います。
誰かの力になりたい、あるいはなれるかもしれないと思って行動しているという点では、皆が同じ思いを持っています。しかし、被災地での活動は、実は誰にでもできるようなことではない。全ての人が現地に向かうことが正しいとは限らないと、私も感じています。
被災地には専門的な知識が必要なんです。その時々に発生する問題を解決するだけでなく、長期の目標に向かって、今後起こりうる問題や流れを逆算して見通すことも必要です。
長期的な復興の中では、そのような視点が重要になります。専門的な支援団体はロードマップをきちんと描くことができる。普段から知識的な背景を持っていないと、そのような計画を描くことはできません。
地震発生からしばらく経って、これからは支援団体の力を借りずに、自分たちで対応しようと思っても、難しい場合もある。ボランティアセンターをもう少し長い期間、開設しておくことも視野に入れるべきだと思います。その上で、いくつかの団体や行政が持つサービスをコーディネーションする長期計画も必要です。
物資については、支援の窓口をしっかり整えて、必要なものを必要なタイミングで届けることが、現地にとって最も負担の少ない方法ではないかと思います。
持ってきていただいた物資で助かった被災者の方も多くいらっしゃいますが、避難所では、物資の仕分け作業に手が取られ、必要なものが必要なタイミングで届かないこともあります。物資に場所を取られてしまい、必要なものを受け入れられないことや、処分しなければならないこともあります。
必要なものを届けたいという思いも大切です。しかし「何か力になりたい」という気持ちだけで行動するのではなく、専門的な知識のある人の意見や現地の正確な情報を確認してから行動しなければならないと思います。
住宅の再建に向けた支援
住宅が被災された方には、壊れてしまった家をどのように建て直すか、またはリフォームするかという課題があります。
いずれにしても非常に多額の費用がかかる。若い世代であれば、対応も可能ですが、高齢の方は、あと何年その家に住むか分からない中で、どのように家を建て直すべきか、または修理するべきか迷ってしまいます。そうした方々の話をしっかりと聞き、どのような再建方法を選択するか、十分に考えられるよう、理解を助けたり、修理の支援につなげたりしています。
解体後の住まいのめどが立っていなかったり、今後の生活方法が決まっていなかったりする方もいらっしゃいます。家を少し修理することで、もう少し住み続けられるという方の支援も行っています。
相談に関しては、災害直後に伝えるべき内容と、1年経過後に伝えるべき内容とでは異なります。さらに時間が経過して、3年目になると、伝えるべき事項もまた変化していく。そのため、時期ごとに情報を整理しながら、相談を受けています。
また、悩みの内容が金銭面に関する場合や仕事に関する場合もあるため、一人ひとり話を伺い、どのようなサポートが可能か、いつも確認しています。
現在の状況
元々、私は中間支援組織にいましたが、4月に辞めて、今は自分で立ち上げた団体のみで活動し、資金や人件費は助成金で賄っている形です。
最初は一人で始めましたが、現在は職員が6人いて、また、他の団体からも人が来ており、ボランティアセンター全体では約30人で運営しています。
旧石崎保育園を借りてからは、教室にベッドを置いて、そこで寝ています。現在は職員2名と、数名のボランティアが日々宿泊しています。
もともと、1人で3ヶ月ほど支援活動をして終わるつもりでしたが、七尾市には代わりになる人がおらず、活動を続けた結果、1年8ヶ月が経過しました。
九州など他の被災地に向かった支援団体もいて、ピースボート、結など、活動を続けている団体も少なくなってきました。地元で結成された団体もあり、支援の一部はその方々が担当しています。
2024年の12月末までは、七尾にはボランティアがそんなに多くは来なかったため、少人数で活動していました。今年の1月頃から、珠洲市や輪島市のボランティアセンターの活動が減少して、その分、ボランティアの方々が七尾市に流れてきています。能登空港の施設も閉鎖されて、そちらの関係者もこちらへ移動してきました。現在まで、約1万人のボランティアが訪れています。
支援活動の今後
七尾での活動期間はまだはっきり決まっていません。ただ、いつまでも存続するのではなく、早く片付けを終えて閉鎖する方が望ましいと考えています。現在、復興の状況を見据えて、支援活動をいつまで継続していくか、検討中です。
県外からやって来ましたが、七尾市の住所で一般社団法人を作って運営しているので、現在は石川県の団体となっています。だから、一応、数年間はこちらに滞在する予定です。もし、次どこかで大きな災害が発生すれば、そちらへ出向くことになるかもしれませんが、現在のところは、ここが戻ってくる場所になっています。
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警察
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(能登町)升谷医院 院長
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

