体験を語る
- 行政
災害対応と避難所運営の課題

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月8日 |
地震発生前と直後の様子
聞き手
まず地震発生前の大晦日の過ごし方について教えてください。
中本さん
大晦日の日は妻の実家で妻や妻の家族と過ごしていましたね。
聞き手
そのまま1月1日も一緒に過ごされていたと。
中本さん
そうですね。1月1日は妻と妻の家族と富山県に行っていました。
聞き手
では、地震発生時の時の様子を教えてください。
中本さん
地震の時は、富山から輪島に帰る途中だったのですが、まだ富山を出発した直後だったので富山で被災したという形になります。富山県小矢部あたりですね。車の中で被災しました。あまり揺れは感じなかったのですが、何台も走っていた車が側面に停まりだしたので、そうしているうちに緊急速報メールを受信し、そこでやっと大きい地震が起きているのだと分かりました。
輪島市へ戻るまでの経緯
聞き手
車の中で被災されてから、その後の動きはどうしたのでしょうか。
中本さん
まず、自分は防災対策課の職員という身分であり、車に同乗していた妻と義理の母も医療職という身分でしたので、それぞれの勤務地に家族の安全確認をしながら向かわなければいけない状況だったため、輪島市に向かおうとしました。しかし、かなり道が混んでいたのと、津波が来るという話もあったので、それを避けながら輪島に向かっていたため、1日の夜には七尾市までは行けたものの、七尾市からは道路上を警察がバリケードしており、これ以上は通行できないと言われました。
その時の七尾は停電と断水をしていたので生活が困難な状況でした。その時、私の車には1歳の娘も乗っていて、おむつを替えたりミルクをあげたりする必要があったため、七尾市で1泊することは困難だと考え、1度金沢まで戻って、金沢のビジネスホテルを急遽予約し、そこで1泊しました。2日の朝からまた輪島に向かうのですが、道路はとても混んでいて、通常は行ける道も通行止めという状況で、いつもと全く違うルートで迂回しながら向かいました。本当に他人の家の敷地みたいなところも誘導されながら通行していきました。2日の夜になんとか穴水町まで行けました。穴水町まで行けたのですけど、2日のタイミングでは輪島市向かう県道が通行止めで、別のルートは昼間通行可能だったのですが、夜間通行止めという形だったので、結局穴水町からは出られない状況でした。
穴水町で1泊することに決めて、娘もいたので、横に寝られるところが良いと思い、穴水町の指定避難所を回ったのですが、2日のタイミングでは、どこの避難所も逼迫している状況でしたから、指定避難所で1泊することはあきらめて、穴水消防署の前の広いスペースに車を止めて車中泊することになりました。そこにはほかにも車中泊をしている人がたくさんいましたね。悲惨な状況でしたが、穴水町までは来られる状態にはなっていたので、2日のタイミングでは、もう物資も届いていて、物資を少し頂きながら一夜を過ごしたという感じですね。次の日の早朝から輪島に向い、3日の正午には輪島市役所に到着し、業務に入りました。
被災状況と家族の対応
聞き手
ご自身の被災状況というのはどうだったのでしょうか。
中本さん
私はもともと住んでいた家に妻と子供がいて、別のところに二世帯住宅としてリフォームしていた新居があり、リフォームは済んでいて入居前でしたが、一部損壊で亀裂とか入っているような状況でしたね。もともと住んでいた家は全壊でした。
荷物とかはもともと住んでいる方に固まっていて、私は結局防災対策課に詰めっぱなしのような状況でしたから、妻と家族に動かしてもらっていました。被災してぐちゃぐちゃになってしまったというのもあるのですが、大事にしていたものがなくなってしまったとかもありました。
聞き手
被災後もずっと家には帰れない状況だったということですか。
中本さん
そうですね。1か月くらいは、なかなか帰れませんでした。食料とか備蓄も市役所に被災者の方がいらっしゃったのですぐになくなってしまった状況でした。
そもそも私自身の話で言えば、食べないようにしていました。トイレが使えない状態で、雪を溶かしながら流すような状況だったので、自分はあまりトイレはしたくない気持ちもあったので、最初のころはチョコレートとかそのくらいしか食べられていませんでした。
災害対策本部の立ち上げと初動対応
聞き手
市役所に戻られて最初に取り組んだことは何ですか。
中本さん
そうですね。私は防災対策課の職員なので、現場である災害対策本部がどんな状況になっているかというのを上司に聞いて、その後は全体の状況把握をしていました。3日のタイミングでもまだ何も整理できておらず、電話も鳴りやまない状況でした。電話は、輪島市民や市民以外にも全国から安否不明の状況などいろいろな現状に関する電話が多かったですね。
自衛隊などがどんどん応援に入ってきている状態で本部はグチャグチャな状況でした。その中で、目の前のことと言いますか、安否不明の状況とか、孤立の状況とかその辺の対応を自衛隊と連携をしながら闇雲に対応していました。
聞き手
災害対策本部はいつ頃に立ち上がったのでしょうか。
中本さん
それは、発災直後に立ち上がっているのですが、本部として機能していなかったです。本部の部屋として大きな会議室を使う想定だったのですが、自衛隊やDMAT、支援の方々などかなりの人数が来ていて、その方々が部屋に入られたので、対策本部として輪島市職員の配置場所は最初の方はありませんでした。
聞き手
災害対策本部としてどのような業務をされたのでしょうか。
中本さん
避難指示などももちろんそうですが、特に災害対策本部としては、まとめ役をメインに行っていました。いろいろな課に事務分掌の通り振り分けられて、それぞれの課がそれぞれの業務に取り組むのですが、それを集約したり、情報をまとめて会議全体に通達したりしていました。その中でもまだ発災直後だったので、何よりも人命が一番優先されると思って、安否不明とか孤立集落の状況を一番に考えてはいました。3日はまだ情報が錯綜していたので全くまとめられていなかったです。
情報混乱と支援職員の到着
聞き手
どのように状況把握を進めていたのでしょうか。
中本さん
状況把握というか、その時は沢山の情報が錯綜している状況で、取りまとめられていなかったです。だからもう目の前にある情報をもとにただ一生懸命、効率とか考える暇もなく対応していたような状況でしたね。
聞き手
情報には安否不明、孤立しているとか閉じ込められているといったものが多かったですか。
中本さん
そうですね。こちらの方にすべて電話でかかってくるという状況でしたので、どれが正しい情報なのか誤った情報なのかというのも整理できないような状況の中で、ただひたすら対応していたという感じでした。結局それがどうやって改善されていったかというと、総務省のスキームで応援職員というのが派遣されてくるのですが、その方々は、災害に関してはプロだったので、いろいろ情報のまとめ方などを教えてもらって何とか取りまとめることができるようになっていった感じです。
それまでは、いくら死に物狂いでやっても一歩も進まない状態でしたが、支援者の方々のおかげで、出口が見えるようになってきた状況に変わりましたね。災害対策本部も機能する環境にできるように、段階を追って、取り組んで、いろいろ教えていただいて活動できるようになりました。
聞き手
そのような状態になれたのは何日ごろになるのでしょうか。
中本さん
4日に応援職員の方々が来てくれて、改善していったのが6日くらいですかね。それまでは、得られた情報をただひたすらという感じで、結局各部局の状況も取りまとめられていない状況だったので、それぞれの課がぐちゃぐちゃになりながらも一生懸命にやっていたという感じでした。支援者が来るようになってから、会議とかで全体に共有されるようになったので、ある程度取りまとめられるようになって、進んでいけるようになったという感じでした。
会議体制の確立と孤立集落対応
聞き手
いろんな部局の方が集まって会議が開かれたりしたのでしょうか。
中本さん
4日に会議が開かれているのですが、それは支援の方々中心の形だったので、市が取り仕切って何かしたというのは、8日くらいでしたね。市を中心として、外部の組織と連携して情報共有をしていく感じでした。その中で必要な情報を自衛隊なりDMATに共有してまとめていくことをしました。
聞き手
例えば、孤立集落に関する情報もそこに出ていたりするのでしょうか。
中本さん
入ってきていましたね。その辺のことも本部の会議で孤立の情報をまとめるようなプロジェクトチームを作りましょうとなって、土木課や防災対策課、自衛隊の方も含めてチームを作って、ある程度進んでいったような状況でしたね。
プロジェクトチームが作られるまでは、輪島市と自衛隊でまとまって話し合われるということはなかったですね。自衛隊は自衛隊としての会議があって、捜索班と自衛隊が会議するような場はあったらしいですけど、そこに市の職員が入るようなことは、なかったですね。
聞き手
会議で出た問題を、必要な部署に割り当てていったのですか。
中本さん
部局それぞれに指示を出せる状況になったという状態ですね。プロジェクトチームみたいなものを立ち上げて、あとは孤立の中でも優先順位をつけながら対応していきました。自衛隊も孤立に対して対応しないとダメだってなるのですが、結局自衛隊が単独で動けるようなことはないと思います。市の意向がないと本当だったら動けないみたいな状況になるんです。その中で市の意向と言っても、市長の意向になったりもするので、会議でしっかり話し合われたりとかが大事だったのかなと思います。
自衛隊も動いているのですけど細かく解決に向けて動けていなかったかと思いますね。孤立している人を孤立エリア外に出すにしても、出した後にこの避難所に入れますよとか、避難所に入れなかったら、二次避難に向かってもらいますとか、そういった段取りが必要になりますので、そこら辺の連携ができるようになったのかなと思いますね。
聞き手
自主開設の避難所とかもあったりしましたか。
中本さん
ありました。規模の小さい自主避難所とかたくさんありました。
聞き手
そういったものの把握というのはどのようにされていたのでしょうか。
中本さん
個人からの連絡であったり、自衛隊からの情報共有であったり、最初はバラバラだったのですが、自衛隊も含めて情報が取りまとめられるようになって、情報をひとつに集約できたという感じでした。把握した自主避難所に物資を届けるというのは最初のほうは自衛隊に届けてもらうなどしていたのですけど、いくつもある避難所にそれぞれ物資を届けるのは非効率と言いますか、他の避難所に人が入れるような状態になれば集約できますので、結局物資がある避難所に移ってもらうという段取りでやっていましたね。
避難所開設と物資対応の実績
聞き手
避難所や広域避難の運営や開設にあたって、どのような基準や優先順位で執り行ったのでしょうか。
中本さん
避難所は私たちが開設するというよりも、かなりの大きな地震だったので、1月1日の時点で使える避難所に人が押し寄せたという感じでした。輪島市の指定避難所以外にも、自主避難所も含めてかなりの人数が避難されたという状況でした。そういった情報も全然取りまとめることができていなかったのですが、自衛隊が自分たちの足で把握した数の情報が共有されて、ある程度どこの避難所に何人ぐらいいるかが分かるようになったという感じでした。その中で、最初はかなり人数が多くて、当時の地域防災計画の10倍近くの避難者がいたので、環境整備は困難でした。
ある程度道路が修繕されたりしていく中で、避難者たちが自分で帰れるようになったり、二次避難や広域避難で加賀の方とかに行く方がいたり、1.5次避難という形で福祉避難所に行かれる方がいたりと、徐々に避難者が市外に出ていって、少しずつ減っていくという感じでした。
そんな中、避難所における環境整備というと、ダンボールベッドを置くなどを含めて、避難所の管理をしていかなければならないので、やることが山ほどありました。管理と言っても長々と人員を配置しながらするというのもかなり難しい状況だったので、避難所を少しずつ集約して、絞っていったような状況でしたね。ダンボールベッドを敷きながら適正な人数を把握して、空間を確保しながらそれぞれの避難所をやっていく、だんだんまた避難者が減っていけば、この避難所をなくして別の避難所に集約しましょうというのをやっていきました。その中で、二次避難で石川県の事業として民間の温泉施設やホテルを利用させてもらっていたので、そこを圧迫するわけにもいかないということで、ある程度みなし仮設住宅などが整備されてきたころに、避難所の方々をみなし仮設に移動できるような手助けをさせてもらったりしていました。
聞き手
避難所の管理が大変だったということで、例えば食料や飲料、トイレとか衛生面も含めて困難だったこととかありますか。
中本さん
私は、避難所の運営の部署ではないので、具体的なことはなかなか分からないですけど、聞いていく中だと、避難所の環境整備において、ダンボールベッドを置いたり、簡易トイレの設置や使い方の説明を行ったりとかは、マニュアルがあったり、慣れてきた後半になると結構スムーズにできたと聞いているのですけど、トイレひとつとっても、私達も上手に使うマニュアルというのを準備できていなかったので、トイレがあふれて山もりの中どんどんトイレされていく感じで、市の職員だったり消防の方だったりが、掃除するというのが続いていたとは聞いていますね。
食べ物で言うと1月1日、2日は物資が届かないような状況だったので、食べ物を避難者に提供するのは難しい状況だったというのも聞いていて、例えば地区によっては備蓄をしているところもあったので、そことの線引きと言いますか、自助共助ができているところとそうでないところがありました。同じ避難所の地区で用意していた非常食を地区の代表者が同地区の方に配っていた状況がありましたので、避難者の中でもこの地区の人じゃない人には食べ物などが当たらないとかあったので、そういったのが市の職員にクレームとして向けられることもあったと聞きました。本当に食べ物が届かない状況で、職員もほとんど何も食べられていなかったのではないかと思います。
聞き手
避難所の集約化が始まったのはいつ頃ですか。
中本さん
1月の中旬頃ですかね。
聞き手
避難所の電源の確保ってどうなっていたのでしょうか。
中本さん
発電機で対応していました。各家庭が持っていたものを使ったというよりは、自主防災組織で持っていたという場合もありますし、ある程度したら経産省とかからプッシュ型の支援が来ていたので、それを配備していました。
聞き手
それはガソリン型の物なのでしょうか。
中本さん
そうですね。実際の燃料供給は、消防や自衛隊の方が優先になっていましたが、避難所の方に供給されなかったというような状況は確認していません。もちろん救助を優先していたところがありますし、道路啓開に当たるところは工事業者さんを優先したというのもありましたけど、ただ必要分はそれに対応していた記憶がありますので、燃料が枯渇するような、避難所で生活できなくなるような状況ではなかったのではないかと思います。
聞き手
では、避難所から電源に対しての要望が来ることはなかったのでしょうか。
中本さん
そうですね。電源というか、携帯の充電がなくなったとか電源が落ちたとかはありましたので、あくまで最初のころは救助を優先させてくださいということで、電源の要望があった場合はそうお答えさせていただいていました。ある程度時間が経過した中では、そういったのを叶えられるように機能を増大するなど取り組んでいました。
聞き手
他の自治体では、家庭用の燃料電池や蓄電池が寄付され、住民に配布されたという話も伺いましたが、輪島市でもそのような取り組みはありましたか。
中本さん
蓄電池を個人に配ったとかは、プッシュ型で来たものだったらある可能性はありますけど、私はそこまで細かいことは把握できていないですね。
聞き手
避難所の運営において、高齢者や要配慮者の方々の受け入れや振り分けは、どのように行われていたのでしょうか。
中本さん
誰かの手助けのもと何かできるとかであれば、輪島市の指定避難所とかで手助けしながら対応したというのはありますね。その中で、手助けすら難しいと言いますか、本当に細かな介護がいるような状況ですと、1.5次避難所に移動していただく等、行政として対応していました。
聞き手
輪島病院などの医療機関との情報共有や支援の調整は、どのように行われていたのでしょうか。
中本さん
病院との調整は会議の中で、もちろん個別の情報とかもありましたけど、基本的には災害対策本部会議の中で共有されていたというような状況でしたね。そこで病院の方にも発言できるような状況は作っていましたね。
聞き手
支援物資の搬入や仮設トイレの設置といった支援は、どのくらいの時期・タイミングで行われたのでしょうか。
中本さん
仮設のトイレが入ったのは比較的早かったと思います。1月6日、7日くらいでしたかね。そのころにはもう食糧もちょくちょく入っていている状態にはなっていました。最初のころは本当に食べる暇もないような感じでした。
聞き手
電話も鳴りやまない状況でしたか。
中本さん
そうですね。全国から電話がかかってくるので夜中でも「この人知り合いなのですが情報ないですか」とか結構かかってきていました。ほとんどが安否確認で、全国テレビを見てアドバイスがあるとかもっとこうした方が良いのではないかとか今更こんな状況じゃだめだとかお叱りの電話もありましたね。結構しんどい時期でした。防災対策課の職員は、皆が同じ感じで、家族にも会えなかったりして、しんどかったと思います。
聞き手
職員の方々に対して、メンタルケアなどの支援措置は取られていたのでしょうか。
中本さん
ある程度はありました。赤十字の方とか支援の方々で、ハンドマッサージとか足のマッサージもありましたし、カウンセリングもありましたね。
入浴支援の開始と運営の引継ぎ
聞き手
入浴支援も各避難所で開設されたのでしょうか。
中本さん
輪島市では、各避難所というよりは、輪島中学校と鳳至小学校の2か所にまず開設されました。それもそこに機材を配置できるかどうかの基準になってきますので、お湯を供給できるか否かを考えたときにその場所で開設するという話になりました。あと門前では門前児童館と道の駅に、町野は東大野のプールのところに開設されていて、避難所と離れた場所に開設される場合もありますので、避難所に開設ということではないです。ただ避難者向けと言いますか、自治体が委託し開設した入浴支援も避難者を含めて、そのような方々に向けて開設したという感じになります。
聞き手
場所の選定は水の確保が可能かどうかで決めたということですか。
中本さん
当初は給水車で対応していたところもありましたし、あとはスペース的な問題ですね。避難者のアクセス面でも考慮しましたし、いろいろな面で対応していたという感じです。4月のタイミングで、輪島中学校と鳳至小学校に開設されていた入浴支援をマリンタウンに移動させています。鳳至小学校は仮設住宅を建てるという話になったので、そこで入浴支援を行っていくのが難しくなって移動する対応をしました。
聞き手
最初に入浴支援が始まったのはいつ頃なのでしょうか。
中本さん
1月8日頃ですね。結構早い段階で輪島の市街地にはできていました。1月10日過ぎくらいからぽつぽつとでき始めたという感じでした。他の職員は分からないですが、私は1月の終わりの家に帰れる時にやっと入れたみたいな感じでしたね。それまでは、市役所に缶詰め状態だったので、親から送られてきた汗拭きシートやドライシャンプーで対応していました。
聞き手
入浴支援は、すべて自衛隊が執り行ったのでしょうか。
中本さん
当初は自衛隊でした。1月の最初の方から自衛隊が全て引き上げる5月15日くらいまでは、全部自衛隊にやってもらっていました。そのあとからは、輪島市が業務委託して、NPO法人のVネットに輪島と門前、同じくNPO法人のピースボート災害支援センター(PBV)に町野という形で入浴支援を行っていました。5月15日までは何か所かあったのが、15日以降は、3か所に集約しました。
聞き手
入浴支援において何か大変だったことや問題になったことなどありましたか。
中本さん
自衛隊にやってもらっていたものをNPO法人にやってもらったのですが、逆に言えば、もう少し早くそのような段取りができれば、自衛隊さんもある程度は早くに撤収できたのではないかとは思いますね。NPOに業務委託して行う場合の実例があれば、もっと早くできたのだと思いますが、輪島市が業務委託しながらNPOにやってもらうというのが実例としてなかったと思うので、そういったものをある程度したタイミングで支援員の方からご教示いただくとかによって、やっと動き始めたという感じでしたので、もう少し早く動けたのではないかとも思いますね。
各々の入浴施設に対して、もっといろんな場所で開設してほしいとか不満が上がったこともあったのですが、機材の場所の確保とか様々な問題があったので、それは難しかったですね。やはりNPOに引き継いでいれば、自衛隊さんももっと早くに切り上げられたと思いますし、もっと早くに対応すべきだったのではないかと思います。
聞き手
入浴支援はいつごろまで続いていたのでしょうか。
中本さん
入浴支援は、令和7年の2月末くらいまで行っていました。片づけを含めると3月に入るのですけど、入浴自体は2月末に終わっています。
聞き手
その区切りはどのようにして決められたのでしょうか。
中本さん
避難所に避難者がいなくなったというのもそうですし、水道の配管などがそのタイミングで回復し始めたというのもありますね。
聞き手
震災前から震災後、そして今の状態になって、避難所で何か新たに備蓄を始めたものや、今後このようなものを備蓄していくべきなどありますか。
中本さん
食料や水などは最低限避難所に配備していたのですが、簡易トイレですかね。簡易トイレは今回の地震を通して大事だと思いました。簡易トイレと、あとは、ポータブル発電機とか充電器は配備するようにしています。
聞き手
現在は主にガソリン式の発電機が使われていると思いますが、屋外でしか使用できない点や騒音の問題など、現場ではどのような課題として捉えられていましたか。
中本さん
それはある部分ではあると思います。ただそれに代わる部分で、費用面、国の補助がどれくらいつくのかなどを踏まえて導入する形になるのかとは思います。
聞き手
ギ酸燃料電池というのがあるのですが、ギ酸って常温常圧で液体管理できて発火の恐れがないので、安全に使える燃料ができるのではないかと思うのですがどうでしょうか。
中本さん
そのような新しい設備がでてくれば、何らかの国の補助金などが必要になってくることもあるのですけど、可能性の一つとしてあると思いますね。室内で配備できればいい部分もあるのですが、逆を言うと室内は人で溢れていたところもあったので、外に置かざるを得ない場合もありました。その辺も踏まえたうえで、便利ではある可能性はあると思いますね。
避難生活の長期化と中長期的対応、今後の教訓
聞き手
発災から数週間後の被害の把握であったり、応急仮設住宅の整備であったり、そういった中長期的な対応はどのように進められたのですか。
中本さん
今回の地震での中長期的な活動というと、私ら防災対策課の活動の中にロードマップというものを作成していまして、何がどの場面に必要になるかをほかの課とも通じて整理したという感じですね。その上で、避難者がこういった状況になったら大きく仮設住宅を整備してとか、ある程度人命救助のフェーズが終わってから仮設住宅の整備を行っていきますとか、そういったことを見える化したみたいな形で作成しています。それに向けて動くというのは、防災対策課というよりも、その担当部署や石川県、国と連携しながら行っていったような感じですので、建設に対して防災が何かを口を出したとかはやっていないですね。
聞き手
避難生活が長期化する中で防災対策課が直面した課題などありますか。
中本さん
避難者の次のステップと言いますか、避難所から別のところに移動するというのは長期化するとなかなか難しかった部分があったのかと思います。結局避難所生活が長くなるとその場所に慣れてしまって、次の住まいへなかなか進まないというのはありました。私らはアドバイスや助言をさせていただいたりして、何とか次のステップまで進めたというのがあったので、そのような部分は苦労したところでありますね。
聞き手
今回の地震を通して、防災計画が有効に機能した点や、想定外の課題として浮かび上がった点を踏まえ、今後に向けた教訓やアドバイスがあればお聞かせください。
中本さん
今回の地震は想定の何倍もの規模だったので、地域防災計画の見直しを進めたりしています。あとは、支援の方々に来ていただいていろいろ勉強になりましたし、内閣府防災が示しているガイドラインなども、今回の地震規模によってずれた部分があるのですが、ある程度そこに記載されている必要事項を把握できるようにすることですね。
地震と豪雨を経験して、災害対策本部と安否不明の情報と孤立集落を解決するうえでどうしていったら良いかというところで、プロジェクトチームを作ったり、本部を作ったり、レイアウトを作ったり、そういうように、大規模災害が起きる前に準備する必要があるのかと思いますね。他のそれぞれの部署がそれぞれの役割を把握できるように訓練を定期的に行う必要もあると思います。
あとは、輪島市防災士会を設立する予定なのですが、そういうのを中心として、公助だけでなく自助共助の部分でも災害対応できるように訓練していく必要があるのかなと思います。

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避難所・避難生活
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「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
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防災士として避難生活をサポート」 -
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「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
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「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
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「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

