石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 消防

避難者の皆さんの協力と緊急消防援助隊の応援のおかげで、消防としての災害対応に尽力できた

穴水消防署員 吉岡邦範さん
体験内容
消防署への避難者に対応しながら、応援隊などと協力して、救助活動にあたった
場所 穴水町
聞き取り日 2025年9月20日

地震発生直後の状況

ご自身がどのような状況で被災されたか、お伺いしたいです。

自分は穴水消防署に勤務していて、その日はちょうど勤務日でした。

16時6分でしたか、最初の地震がありまして、地震が発生したときの手順として、消防車両を全部前に出しました。震度4以上になると職員が全員自主参集してきますので、集まり次第、箇所を振り分けて、現場の状況を確認しに行こうかという話をしていました。

その次に、あの一番大きい16時10分の地震がありまして、最初は事務所の中にいたんですが、すぐ外に出て、揺れがおさまるまで、外で待機していました。

穴水消防署には、全部で何名いらっしゃったのでしょうか。

そのときは全部で22名です。当日は7名勤務で対応していました。

2回目の大きい地震があった後、どのように活動を始めたのでしょうか。

大きい地震があった時に、周りが結構揺れていたので、周辺の状況を確認していました。山手側の方は木が折れるようなバキバキという音と土砂の崩れる音がしました。

消防署は平野という場所にありまして、役場や駅前の周辺がちょっと遠くに見えるんです。その周辺のところから黄色い土煙といいますか、家屋が倒壊した時に出る煙がいくつか見えました。また、平野地区の住宅がいくつか倒壊して行くのを目の当たりにしまして、これはかなり甚大な被害が出るなというのは直感しておりました。

少し揺れがおさまった後に、現場を確認しに行かなければと思いましたので、職員2名を住民が1番多い川島という地区の巡回にあたらせました。

巡回に行っている間に、平野地区の住民の方や、たまたま車で通りかかった一般市民の方が、消防署にいっぺんに避難してきました

集まった人に話を聞くと、穴水町の川島・大町地区へ行く途中で土砂災害があって通れなかったという方と、のと里山海道も、珠洲・輪島へ行く道もすべて寸断されてどこも通れなくて、穴水消防署に来たという方がいっぱいおられました。

その時は100人ほどが一度に集まりました。なので、消防署にいた残りの5人で、情報収集と、皆さんに怪我や病気が無いかを確認しました。また、安全確保のため「広い駐車場の真ん中ぐらいにみなさん集まって待機してください」というふうに呼びかけていました。

情報収集はどのような方法でされたのでしょうか。

ひとりひとりに「怪我がある方はこちらに来てください」「どんな状況でしたか」ということを聞きながら、「道が通れなかったところはどこですか」という情報を確認しました。

その後の対応はどうされましたか。

現場を確認しに行ったポンプ隊の職員から「土砂災害で道路が通れなくて戻ってきた」という報告があって、徒歩でなら行けるということだったので、駅のほうまで歩きで行ってもらいました。駅の付近に穴水分団があるので、そこの車両をお借りして、町内を巡回し、現場の確認をしました。

また、町外の方ですが、消防署へ駈け込んで来られ、「倒壊家屋の下敷きになって、救出したけど、病院に連れていこうにも、道路が寸断されていてどこにも行けません」という方が2名おられた。うちの消防の救急隊員が処置をして、先ほどの分団の車両を借りた職員がそこまで行き、徒手搬送をして、ポンプ車で病院に運びました。

2名の処置はどのようなものでしょうか。

止血と、打撲や骨折があったので被覆するなどの応急処置をして、病院に連れていった形になります。時系列で見ると、1人目が19時、2人目が20時に救急処置をしました。

消防団の車両の貸し出しは、もともと決まっていたのでしょうか。

緊急のことで、車両の場所も分かっていたので使ったということです。分団長さんに、借りるという話はしてあって、鍵のある場所も分かっていましたので、使うことができました。

避難者対応について

一般市民の皆さん方が消防署にいっぱい集まり、帰すわけにいかないので、避難場所にするという話になりました。

しかし、穴水消防署に、100人分の物資もなく、どうしようかと考えていたところに、「コメリ」や「どんたく」といった、近くのスーパーの店員さんも避難していまして、「自分らの店にある物資を使っていいです」と言っていただきました。それで、避難してきた一般の方と協力して、物資の搬送を実施しました。

今度は避難民の誘導をどうしようかという話になったんですけど、なかなか職員も集まらなかったんです。震災があって1時間以内に集まったのは3名でした。1日後に全員集まってくるまで、9名しか集まらなくて、16名の職員で対応していたんですね。なかなかその100名をさばくのも難しかったので、避難されてきた方に協力してもらって、名簿の作成や物資の配布なども全部手伝っていただきました

どのようにして避難者の役割を分担しましたか。

分担はさすがに難しくて、平野地区の保育士さんや看護師さんが避難しておられましたので、その方に協力いただきました。「名簿を作成してください」「怪我ある人がいないか確認してください」という話をしました。たまたま、自分の同級生が避難してきていたので、その人に「物資の配布などの担当を決めてほしい」とお願いしました。

夜9時ぐらいになってくると、そのまま外にいても寒いですし、災害弱者といわれる、小さい子どもや老人、病気を持っている方がいましたので、そこまで大きい部屋ではないですが、消防署の2階の研修室を解放して、災害弱者の方を上げました。残りの方は、車で来られている方は車で待機していただいたのと、防災テントを立てて、そちらに待機していただくようにしました。

防災テントにはどれぐらいの人数が入ったのですか。

ただ座っているだけでしたら、30人ほど入れるんですけど、やっぱり横になりたいとか色々あるので、そこまでの人数は少し難しかったかと思います。車の中に待機している方のほうが多かったと思います。

最初、100人ぐらい人がいるときはどんな状況だったのですか。

100人ほど集まりましたが、車の中にいる方もいたので、場所的にはそこまでぎゅうぎゅうに詰められたということは無かったです。 食事はカップラーメンのブースやご飯のブースなど全部管理する人がいました。配布して足りなくなったら、スーパーのほうにまたお願いしていました。

一般住民の方はいつまで避難されていたのでしょうか。

消防署の2階は本来の避難場所ではなく、あくまでも緊急的な避難場所で、物資もあまりなかったんですけど、最終的に1月の終わりぐらいまでは、住民の方がおられました。その頃になったら10名ほどにはなっていました。

避難者がいなくなるまで、支援としてどのようなことを行ったのでしょうか。

職員が集まって落ち着いてきたので、避難者対応にも職員を割り振り、物資の搬送や管理補助などに対応していました。

困ったことはありましたか。

職務は消防活動がメインになりますので、避難者の方中心に活動していくのはなかなか難しかったので、避難者の皆さんに協力していただきました

「私は物資の役割をします」「私は名簿とります」「私は体調管理します」というのを分担してやっていましたし、寝る場所も「自分の家族はこのグループに分けます」というふうにすみわけをしていたので、生活環境はよかったのかなと思います。

ただ、やっぱり長いこといるとストレスも溜まりますので、ちょっとした小競り合いなどはありました。その時は呼ばれることもあったんですが、そういうときは、お互いの話を聞きながら「ストレス溜まるよね」って話をしながら、なんとか対応しました。

避難生活の場では、パーテーションや仕切りはあったんですか。

小さい子どももいましたので、小さいテントみたいなものを立てて、そこで授乳できるようにはしましたが、基本的に、段ボールなどもなくて、本当にただフロアで休んでいるみたいな感じで、プライバシーはちょっと保たれてないとは感じていました。

ほかに物資で困ったことがあれば詳しくお伺いしたいです。

水の関係ですね。水道が寸断されて、トイレも水が出ない状況になっていました。防火水槽から水を汲んで、トイレを流すのに使っていたんですけど、それも限度がありますので、川から水を汲みまして、防火水槽に入れました。

飲み水はさすがに支給されて、ペットボトルの水はあったんですけども、手洗い程度の水は山水で確保しました。

冬でしたが、感染症は発生しましたか。

幸い、穴水消防署の避難所ではなかったんですけども、他の避難所でコロナの発生があり、蔓延して、救急活動が苦慮したということはありました。

今回、一般の方が消防署に避難することがありましたが、そのことで何か感じたことはありますか。

公的機関が皆さん全体を助けることはなかなか難しいです。自助・共助が大切になると思いました。

今回消防署に避難してきた方は、みんな協力して行動してくれたので、消防士は災害の活動に集中して当たることができたのでよかったです。横のつながりは難しいですが、助け合いが活かされたなと思います。

消防としての活動

その後の救助・救命活動はどのようなものがありましたか。

実は、発災当日の消防の活動として、幸いにして火災は無く、救急においても先ほどの救急2件で、あとは避難されてきた方に「体調が悪くなったらすぐに連絡ください」と言って、逐一状況の確認はしていたんですが、幸いにも皆さん大丈夫でした。

ですが、土砂災害の対応をしなくてはならなかった。土砂をどけないことには、県内応援隊や緊急消防援助隊が到着できませんので、その土砂をどうしようかという話をしていました。

その時に、建設会社で働いている消防団の方がこちらへ来られた。たまたま、除雪のために大きい重機を待機させていたので、「重機を使って、土砂をどかしましょうか」という話をいただき、土砂の除去をお願いしました

土砂の除去は1月1日のうちにされたのでしょうか。

そうですね。すぐに除去作業していただきました。ただ、重機1台で対応していましたので、すごく時間がかかりまして、最終的に全部除去できたのが23時37分です。土砂を除去して、車が通れる状況になりました。

その後、他の消防隊の方はどのように支援に来られましたか。

1月2日の夜中の1時6分頃に、金沢市の消防隊の方が先遣隊として穴水消防署に来られ、こちらが得た情報を共有して、活動方針を決めていきました。 本来、県内の応援隊や緊急消防援助隊の方は、輪島市の消防本部に行くんですけども、道路が全部寸断されて、どこにも行けない状況になっていたので、奥能登管内では一番手前にある穴水消防署を指揮本部として設立し、活動したという形です。

最初の先遣隊として金沢からは何名ぐらい来られたのでしょうか。

その時は4名でした。そこで「土砂災害の被害はどうなっているか」「どこに倒壊家屋があって、行方不明になっている方は何人いるか」という情報を共有しました。役場にも状況を確認して、その情報もお伝えしたところです。

1月1日の23時には土砂が撤去されましたので、先遣隊が来られたんですけども、もし土砂が撤去されていなかったら、消防署に来られない状況だったので、その時は役場のほうに来ていたかもしれませんね。 先遣隊はあくまでも指揮をする方ですので、現場で活動するような車両では来てないです。その後、朝4時頃には、金沢や小松など県の消防ポンプ隊や救助隊が来られたので、一緒に救出に当たりました

救助の要請はどのくらいあったのでしょうか。

穴水では、自分の把握しているところは4件でした。

救出活動は穴水だけじゃなくて、ほかのところにも行ったのでしょうか。

輪島市などからもありましたけど、土砂崩れや道路の寸断などでそこまで行けないので、とりあえず穴水消防署に集まった隊は穴水管内で対応していただきました。 門前経由のルートで来られた応援隊は、門前や輪島で活動したと聞いております。

救出活動はどのように進められたのか、お伺いしたいです。

自分は現場に行けていなくて、現場にいたのはうちの職員ですけども、アテンドとして働きました。応援隊の方が来られても、地理には明るくないので、職員がナビとして行っていました。重機を使う前に、倒壊家屋の屋根や柱を除去し、中に入れるような状況かを見ながら確認して、声が聞こえたら助けに行ったと聞いております。

救助の内容で多かったのは、家屋倒壊でしょうか。

うちでは家屋の倒壊が多かったです。実際に家屋の倒壊で救出があったのは2件になります。他は、自力で出てきて病院に行った方もいますし、地域の皆さんが協力して助けたという話も聞いております。

本部を立ち上げるにあたって、地元の人と、外部から来た人の役割はどのようなものでしたか。

基本的に自分たちは、受援というか、援助を受けるほうなので、率先して活動するということはありません。発災時の情報収集や活動は自分たちでするんですけど、指揮本部ができましたら、指揮権がそちらに移りますので、自分らはその補助という形で、現場に向かうためのルートを案内したり、役場や一般市民の方からのいろんな情報を収集してリストを作ったりということを実施していました。

救出までどれぐらい時間がかかるのでしょうか。

倒壊家屋の話になりますと、2日には、救出が終わっているんですけど、由比ヶ丘というところの土砂災害は結構時間がかかりまして、最終的に救出して終わるのに1月8日までかかっております。

土砂災害への対応はどのように進めたのでしょうか。

自衛隊と警察、消防の三者で、土砂の撤去と救出に当たりました。消防も重機を使いまして、家屋の状況確認しながら、あまり掘ってしまうと、今度は行方不明の方を傷つける可能性もありますので、ある程度土砂を取りましたら、今度は人間の手で土砂をよけるようにして、行方不明者の捜索にあたりました。

土砂の対応で一番大変なことは、どこに行方不明者がいるのか把握できない状況です。倒壊家屋がこの辺りにあるから、多分その下にいるだろうという予測を立てるんですけれども、なかなかいきなり重機を使うのは難しく、一つ一つ確認して、いないと判断してから重機を使ってどかすという作業をしていましたので、救出には時間がかかりました。

行方不明者を知るための情報収集はどのようにされましたか。

役場の災害対策本部から、行方不明者の名簿、倒壊して土砂に巻き込まれた家に誰が住んでいたか、どういう状況になったかという情報を基に、自衛隊や警察の方と情報を共有するという形でした。

自衛隊や警察との役割分担や連携というのはありますか。

捜索は、棒みたいなのを差して、手応えがないか調べるんですけど、消防はこの場所、警察はこの場所とか、基本はフロアを決めて活動していました

各職種で場所分けをされた中で、統括するリーダーのような方はいましたか。

金沢の指揮隊が現場におられましたので、そちらで自衛隊や警察と協議して決めたと聞いています。

救急の依頼はありましたか。

病院への搬送もあったんですけれども、病院から病院、例えば、穴水総合病院から医科大や県立中央病院など金沢の方までの転院搬送という形でかなりの件数がありました。その時には、応援の救急隊に協力していただいたのですが、やっぱり道が分からないというのがありましたので、うちの職員をひとりずつアテンドにあてて活動したという形になります。

外部からの応援では、どういう方が来られましたか。

石川県内では、七尾から下の市町は全部来られました。それ以外には、緊急消防援助隊として、鳥取県隊の方や、大阪、京都、岐阜の救急隊、ポンプ隊がこちらに来られまして、救急の対応や水位の確保などに皆さん協力していただきました。

そういった支援の方はどれくらい滞在されるのでしょうか。

県外から来られた緊急消防援助隊は2月21日、県内応援隊は3月12日まで滞在されていました。また、一隊に対して、だいたい2日ないし3日で交替になるんですけども、遠いところですと、長くて1週間ほどで交替していたみたいです。

外部の方との連携で困ったことはありましたか。

救急隊の活動は、基本的に救急に資することと決まっていて、そのために動いていたということなので、そんなに困ったことはなかったかな。

やはり道が分からないということで、地元の消防士としては、やっぱりアテンドの役割が大きかったです。ナビをするための状況の把握が結構大変でした

情報収集もなかなか難しくて、先ほどいたところが、余震で崩れて通れなくなったとか、土砂で道の段差がひどくなって通れなくなったということがあって、さっき通れたから行けるという状況ではなかったので、苦労したと聞いております。いつもでしたら10分で到着するところが一時間ぐらいかかったりしました。

金沢へ行く用事もあって、道も寸断されて、状態が悪かったので、往復に5時間ぐらいかかったとも聞いています。その後また帰ってきてすぐアテンドしていたので、かなり疲弊した感じになっておりました。

民間の方との協力はありましたか。

土砂災害の救助の際に「ここに人がいる」とのことで、一緒にがれきをどかしたことがあったと聞いています。そのほかに、消防団の方も地区住民の方と一緒に家屋から救出したりもしていたとのことです。

余震も結構あったと思うんですけど、二次被害は大丈夫でしたか。

余震は多かったですけど、幸い、穴水は火災もなくて、津波もなかったので、二次被害ということはなかったです。

震災関連の消防の救助活動はいつまであったのでしょうか。

穴水消防署管内では、1月8日までです。最後は土砂災害で行方不明になった方の救助だったのですが、8日に終わりました。

あとは、2月の終わりまで、水利点検や道路が寸断されていないかの調査にあたりました。火災が起きた時のことを考えて、穴水には、消火栓・防火水槽が合わせて436基あるんですが、そのうちどれが使えるか・使えないか、応援隊の方と協力して町内全体を回り、1つずつ調査しました。

情報収集には紙を使っていたのでしょうか。

インターネットは使えたので、実際に現地に行った情報をExcelに落と込んで情報共有しました。

穴水消防署の状況

職員の方は、ずっと通しで働いていたのでしょうか。

当日集まった職員が16名、最終的に、2日の15時には全職員が集まって、22名で対応したのですが、皆、しばらくは家に帰れず、署に待機していました。中には、2週間ずっと署に待機して、消防活動をしていた職員もいました。

ただ、さすがにずっと働きどおしでは厳しいので、適宜休憩しながら、順番を決めてローテーションで実施していたということになります。

2週間ずっと消防署にいたということでしたが、活動が長期になってくると、疲弊して、ストレスもあったと思いますし、職員の方々のケアはどのように行いましたか。

アテンドを何人か決めて交代で実施しました。アテンドから帰ってきたら「1時間でも2時間でもいいから横になって休んでくれ」という感じです。 興奮して眠れないという人もいて、「出て来なくていいから、少し部屋で布団に入って休んでくれ」という話をしたり、「今の状況はどうか、体調は悪くないか」と聞いたりしながら、ストレスケアをしてきました。

震災があった時のマニュアルはあったんですか。

震災マニュアルには「震度4以上の時は、自主参集して町内の情報収集に当たる」「震度5強以上の時は、消防団の方も動いて、情報収集に当たって活動する」「避難所の設営」という内容がありました。一応、消防署の2階が仮避難所みたいな形になるので、その対応をするという話はしていました。

マニュアルが役立ったということでしょうか。

そうですね。ただ、マニュアル通りに動けるかというと、なかなか難しかった。いろんな話を聞きながらマニュアルを作成していたのですが、やっぱり実際に地震を受けて、「この部分は直さないといけないな」「消防署にも簡易トイレなどの物資を保管しないといけない」というように、一度に人が集まった時の対応には課題がありました

今回は、先ほど言いました「コメリ」や「どんたく」といった近くにあるお店の協力がありましたので、食べ物や衣服、ストーブをお借りして暖をとれたことがありました。けれども、それがなかった場合はどうするかということがありましたので、「応援協定を結んでいかなければいけない」という話はしています。

今後への教訓

震災後、防災訓練の内容などに変化はありましたか。

今まで、地区住民の避難訓練はありましたが、やはりリアルに体験していますので、「どこを避難所にするのか」「道路が寸断されていたらどうするのか」「どのような救助袋を持っておくのか」など、より細かいところまでの準備が増えていきましたね

また、地元の消防団とのつながりは密になっていますので、話をしながら対応を考えています。今後は、消防団の方が災害時に必要だと思った器具などをリスト化してもらい配備していく予定です。

今回の震災を踏まえての必要な備えや教訓を教えてください。

震災が起きてすぐに人が参集するのは難しいということです。先ほど話しましたように、職員全員が集まるのに2日の15時までかかりましたし、県内の応援隊が来たのも、夜中の1時ですから、地震の発生から7~8時間後になります。それまでは少人数で対応していく必要があるので、何とか乗り切っていくために、どのように対応するか、役割分担や訓練が必要だと思います。

そして、県内の応援隊や緊急援助隊などが来られたら、その方々に任せて、現地の職員は疲労がありますので、休息をとり、ストレスケアをしていくことが、消防力の維持につながると思います。

震災からどんどん時間がたっていき、風化していくので、このような機会を通じて忘れないようにしたいです。記録に残すことはとても大切ですし、依頼があれば伝えていきたいと思います。

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