体験を語る
- 避難所・避難生活
想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態

| 場所 | 西浦防災センター |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月1日 |
被災当初の状況について
聞き手
被災してから、西浦防災センターの鍵を開けるまでの流れについて教えていただきたいです。
小橋さん
14時ごろの新幹線で子どもと孫が帰ったのを見送って、家に帰ってきたのが15時ごろ。お正月だから一杯呑もうかと色々準備をしていたところです。
16時ごろに地震が起きて、とりあえず外に出ました。「防災センターのカギを預かっていたから、開けないとダメだな」と思い、16時半過ぎにはカギを開けました。その時はまだ誰もいません。まず全ての部屋の電気、暖房をつけて、自宅の様子を見に帰りました。
自宅の戸締りを済ませて、17時半頃にまた来ると、かなりの人がいて、19時頃にもう一度来た時は、中に入りきらないほどになっていました。入れない人は運動場で車の中で避難していました。
本来、この地域の人口は、鹿頭地区では家屋が100軒、人数にすると200人ほどですが、隣の笹波地区は被害が大きく、笹波地区の集会所が使える状態ではなかったので、皆こちらに来ました。
2つの地区の人が集まって、そうなると400人ほどで、普段の倍以上の人がいましたね。名前を書いて受付をしてもらったのですけど、すでに中にいた人だけでも350人くらいでした。はじめの方はこんなところです。
聞き手
西浦防災センターのカギはどうして預かっていたのですか。
小橋さん
行政から、西浦の地域の方で自由に使ってくださいということでカギを預かっていたんです。隣の体育館の浄化槽が使えなくなっていたので、もしもの時に使えるようにとも言われていました。
もう1つ、西浦コミュニティセンターのカギは区長なので持っていて、そちらも開けるべきか迷いましたが、後から行ってみると、ロッカーのガラスが割れて飛び散っていたので、結果的に開けなくてよかったと思っています。
聞き手
カギは家の中にあったのでしょうか。
小橋さん
地震が起きたときは家の中にいて、倒れる本棚を避けて、揺れが収まってから外に出ました。家や周りの様子を確認してからカギを取りに戻りました。ただ、家の状況もちゃんと確認はしていなかったので、防災センターの鍵を開けてから一旦家に帰ったんです。早く開けたことで、来た人はスムーズに入ることが出来たと思いますね。
聞き手
避難者の方には、帰省されている方など、普段見かけない方も多かったのですか。
小橋さん
帰省された人でも顔が分かる人はいましたが、数が多くなってくると、知らない人が多くなりました。
聞き手
建物の容量を大きく超える人数が来たと思いますが、ホールは人でいっぱいの状態だったのでしょうか。
小橋さん
一応100人を想定したつくりになっているんですが、あの時は300人ほどいたので、横になることはできなかった。体調が悪い人などは体を横にして寝ていましたが、基本的にはしゃがんで寝るような状況でした。
この建物には簡易ベッドと毛布が50個ずつくらいありましたが足りません。避難者の中には毛布や寝袋を持ってきている人もいました。様子を見て自宅に毛布を取りに行く人や、車中泊しに行く人がいましたね。
近くのグループホームの利用者の方もこの建物へ避難して来たのですが、一般の人と分けたほうが良いということで、その方たちには倉庫で生活してもらいました。
聞き手
ホールにはブルーシートを敷いていたのですか。
小橋さん
ブルーシートがあったかは分かりませんが、1日目は何もしていません。2日目か3日目に西浦センターと笹波集会所から座布団とストーブを持ってきました。それぞれの家から座布団やゴザを持ってきた人もいました。
1週間も経てば帰省客は帰って、地元住民の100人になりました。それまでが大変でしたね。
聞き手
人が予定より多くいらっしゃったわけですが、暖房器具はエアコンだけだったのでしょうか。
小橋さん
廊下には空調がないので、持ってきたストーブなどを使っていましたね。
聞き手
1日目の夜ご飯はどうなさったのですか。
小橋さん
正月ということもあり、皆さん何かしら食べていたので、炊き出しはしなかったです。2日目の朝から家から持ってきた米と炊飯器で、炊き出しをしました。防災センターにある非常食をみんなで分けて食べました。
1週間後に町から支給が来るようになりましたが、それまでは炊き出しのおにぎりと非常食のおかずです。
聞き手
非常食は何日分あったのですか。
小橋さん
大体3~4日分くらいですかね。もっとあったかもしれません。ただ、非常食は朝・昼・夜のようにセットになっていたので、別々のものを支給すると争いの元になるので、同じ物になるようにセットをバラバラにして工夫しました。

聞き手
電気以外のインフラは生きていたのでしょうか。
小橋さん
ここは電気だけでしたね。飲み水はありましたが上水道は止まっていました。
やっぱり大変だったのはトイレですね。向かいの醤油屋さんの井戸が使えたので水を運んでもらいました。この建物は合併浄化槽を持っていますので、水さえあればトイレを流せます。仮設トイレを持ってきてもらいましたがほとんど使わなかった。
ただ外からトイレのタンクに水を運ぶのが大変だった。運ぶのを手伝ってくれる人もいてとても助かりました。この防災センターの1番良かったことがトイレを使えたことじゃないかなと思っていますね。
聞き手
支給品が来るまで問題は起こりませんでしたか。
小橋さん
問題は特に起こりませんでした。地域のなかで2、3年前に防災士の資格をとっている人がいて、その人がずっとついてくれていました。
あと、1月1日に帰省していた看護師さんが来てくれて、名簿や受付などについて指示をしてくれたのが助かった。
聞き手
看護師の方や、水を運んでくださった方々のおかげで成り立ったということですね。
小橋さん
当時は皆さんも被災されていたので、ボランティアではなく、協力ですね。動ける人が頑張ってくれたということです。
聞き手
買い出しなどは家族単位で行かれたのでしょうか。
小橋さん
まず3日間は車を動かせなかったですね。近くの道路が陥没した場所でパンクした車が何台もいました。駐在さんがいろんな情報を教えてくれたので、家に帰ったり、買い出しに行ったりができました。
聞き手
電気があったということは、テレビがついていたのでしょうか。
小橋さん
テレビはずっとつけていました。交通情報もテレビなどから得た情報があります。ちなみに電話は使えましたが、繋がりにくいタイミングがありましたね。大きなアンテナが無い会社はつながらなかったみたいです。後から自衛隊や通信会社の支援もあって、それからは問題ありませんでした。
聞き手
電線は繋がっていたのですかね。
小橋さん
倒れた電柱はなかったが、傾いたものはたくさんあります。危ないものから1本ずつ直していますが、電柱の数も足りてないようです。
被災後の状況について
聞き手
少しずつ復興というものは感じていますか。
小橋さん
うちの地域でみると全然ですね。特に道路は他の地域に比べて手つかずの状態。予算は付いていても業者さんがいないので、しょうがないですが、普段使っていたメインの道路が復旧しないと復興した感じはしないですね。
水道は2月いっぱい使えなかったです。避難所が30、40人になる3月上旬ごろまでは、井戸水でトイレを流していました。
聞き手
普段の買い出しはどこに行っていますか。
小橋さん
近くに小さい商店はありますが、基本的には富来のAコープの方まで出かけていますね。支給品がちゃんと届いていたので、買い出しにはあまり行っていませんでした。

1番困ったのは風呂と洗濯なのです。私は、風呂に入りに行くついでに洗濯物を持っていき、洗濯をしている間に風呂に入るというパターンで、当初は金沢のお風呂とコインランドリーが近くにあるところへ行っていました。週に1回ぐらいですかね。
自分の家で井戸があるという人はそれで洗濯をしたみたいですけど、何軒かしかないので、みんなお風呂と洗濯がセットでできるところにしか行っていません。 羽咋からは北はコインランドリーもそんなにないので、金沢の方へ行かないと風呂とコインランドリーが近くにあるところはなかなかなく、しかも混んでいるので困りましたね。
聞き手
自衛隊のお風呂はなかったのですか。
小橋さん
ここはなかったですけど、富来のフレアと熊野地区にはありました。
お風呂が欲しいという話を言っていたら、日本財団というところがやってくれることになった。水をどうするという話になったのですが、ちょうど冬の間で、田んぼ用の調整池からパイプラインで近くまできている水を使って風呂を沸かせばいいのでは、という話をしたら、やってくれることになり、三重県にあるろ過機の大型トラックを使って、きれいにした水をお風呂に使いました。結果的に動き出したのが 2月の中頃ですかね。
聞き手
インフラも動くようになり、2月に入ってから復旧したのですね。
小橋さん
はい。自衛隊のお風呂へ行く時に、車がない人のために車を出すこともありましたが、お風呂ができたから、車の免許がなくなった人たちにとっては便利でした。ここのお風呂は最終的に 8月までやっていました。
自宅の合併浄化槽が地震で壊れた人もここのお風呂に入りに来ていました。全部の合併浄化槽が直ったのは 9月に入ってからかな。お風呂があって助かった人が何人もいました。
洗濯もしようと、水を持ってきて、洗濯機も用意したけど、水圧がなくて。タンクローリーを使って水を高いところに上げているけど、全自動では水が回らないし、2層式でもなかなか水が回せない。洗濯だけはなかなかうまくいきませんでした。けど、その頃になると、羽咋でもコインランドリーが混まなくなって、洗濯に行けるようになっていました。


聞き手
避難所生活で、避難者同士でのトラブルなどはありましたか。
小橋さん
1件だけですけど、ありましたね。パーテーションが2月4日に来たんですけど、密閉されると窮屈だという声があったのではじめは仕切っていなかったんです。
2月に女の人がやってきて、みんな雑魚寝で落ち着かないから仕切ってほしいと言われて仕切りました。一度覗いているとか覗いていないとかでトラブルになりましたね。2月の初めの混雑している時でした。まわりの人も注意して対応したので、おさまりました。それ以外はずっと和気あいあいと、特に問題もなく生活できました。
聞き手
ペットを飼っている方はいらっしゃいましたか。
小橋さん
家に置いてきた人や、玄関の風除室に犬や猫のゲージを置いて生活していた人もいます。コロナやインフルの隔離のためにグループホームも使っていたけど、倉庫や物置も使い方次第で、上手く対応できたかなと思っています。
聞き手
病気やケガとかの対応は、先ほど言われていた看護師の方が中心で対応されていたのでしょうか。
小橋さん
75歳以上の高齢避難が多く、環境変化、食生活の変化などで高血圧症、糖尿病の持病がある人の体調変化が懸念され、集団感染も予測されたので、毎日個別に体調変化に対応していました。地区内にいる看護師さんが常駐してくださり、また救急車に何度か来てもらったことはありますし、体調が悪くて手術をした人もいます。手術した人は子どもが羽咋にいて、羽咋の病院で手術をして、落ち着いてから戻ってきましたね。一人暮らしで家は何も片付けていないので、ここが閉鎖するまでずっといました。
聞き手
避難所の管理はお一人でされていたのですか。
小橋さん
責任者は私の名前ですけど、私と笹波区長の高平さんで管理をして、バックアップで笹波の方が2人、水を運んでくれたりしました。笹波地区の区長さんには管理運営を手伝っていただきました。
笹波は集会所を持っているんですけども、大規模半壊で、この前やっと修繕して使えるようになったんですよ。1年半は全然使えなくて、避難所としてもダメでした。
笹波地区に行ったら、本当にたくさんの家が被災しています。仮設住宅に入っている人がたくさんいるんです。鹿頭は2軒しかないんですけど。
聞き手
先ほどのお話で、お風呂が 8月頃まで開いていたということですが、避難所はいつまであったのですか。
小橋さん
最後3組くらいだったかな。さっきの手術した人もずっといたわけですけど、仮設住宅に入る人、家に帰る人など、全員が退所できる見通しが立ちました。その時点で閉鎖したので、確か去年の4月20日だったと思います。
聞き手
水道が復旧したのはいつ頃ですか。
小橋さん
3月上旬ですね。田んぼ用の水を風呂に使っていたのもそのころまでで、水道が普及してからは水道の水を直に入れるようになりました。
3月までは水道関係の車が来ていて、この水は飲めるのかと聞いたら、水としてはきれいなんだけども、消毒の関係もあるので、飲用にはならないと言われました。
郵便局も被災して、ATMが置いてあるんですけど、お金を引き出せるだけでは不便だから、なんとかしてくれと言って、午前中のみだけど、いまは荷物の配達も引き受けるようになりました。米の収穫期なのでみんな送っています。
聞き手
少し話が変わるのですが、積雪時は大丈夫だったのですか。
小橋さん
雪は1月の初旬に1回、少し降ったけど、積雪はあまりなかったです。凍結は結構あって、滑らないか心配でしたね。
聞き手
除雪作業などは行われなかったのですか。
小橋さん
そこまでの量ではなかったですね。除雪車も動いたかどうかというくらいです。隣の西海地区の方は雪が多く降りますが、ここは元々少ないですね。
聞き手
去年の4月に避難所は一旦閉鎖したということですけれど、それから現在まで開いたことはありますか。
小橋さん
ないですね。去年の豪雨では、門前の方は被害がひどかったみたいですけど、ここはそこまでひどくなかった。今年8月の雨の被害の方がひどかったですね。堤が1つ壊れてしまいました。ただ、人的被害はなかったです。
聞き手
堤というのは水を溜めておくようなものでしょうか。
小橋さん
そうです。田んぼ用の水を溜める堤です。
避難所での就寝について
聞き手
床で寝ることに抵抗がある方もいたと思うんですけど、ベッドは始めから準備されていたのでしょうか。
小橋さん
ベッドはある程度保管されていて、50個ほど使えたんですけど、100kgの体重制限があって、2、3つ壊れましたね。
聞き手
パーテーションも一緒に使っていましたか。
小橋さん
人が多すぎて使えませんでした。3日から一週間以内の間に模様替えをして、100人前後になった時点で、場所分けをして、自分の場所にベッドなどを移動させましたね。
その頃になって段ボールの簡易ベッドが来たんですけど、段ボールベッドって、場所をとって、硬いので、みんなあんまり使いたがらないんです。ベッドを壊した人だけ段ボールベッドを使ってもらっていました。
聞き手
段ボールベッドの上に空気の入ったエアマットがあって、その上に毛布などを掛けて寝ると思うんですけど、それでも硬いですよね。
小橋さん
空気を入れるエアマットみたいなのは全部パンクしたんです。製品が悪かったのか、空気を入れたけど、パンクしたので全部捨てましたね。結局、毛布だけではなかなか寝られないので、座布団を持ってきたりしていました。
聞き手
布団も持ち込んでいたということでしょうか。
小橋さん
毛布は物資で来たんですけど、敷布団は、持ってきた人以外はなかった。座布団が西浦センターに50枚ほどあって、笹波からも50枚持ってきたから、100枚でベッド代わりに使っていましたね。だんだん人数が少なくなってきたら、自由に何枚でも使えるようになりました。
聞き手
簡易ベッドの使い心地はどうだったんですか。
小橋さん
悪くはなかったですし、自分のスペース確保としての使い方もありましたからね。広すぎず狭すぎずで、ちょうどよかった。和室にベッドを敷いて寝ている人もいましたね。
聞き手
被災した当初から、和室の仕切りは利用されていたのでしょうか。
小橋さん
仕切りをするほど余裕がないというか、人が多すぎてそんな感じじゃなかったですね。帰省していた人が帰って、3日から地域ごとに区画を分けていきました。それまで全然そんな余裕はなかったと思います。
聞き手
お子さん連れの方もいたと思うのですが、子どもたちはどうしていましたか。。
小橋さん
この地域には小学生が全部で3、4人しかいなくて、このセンターに来たのが2、3人かな。それに加えて帰省していた小さい子どもが何人かいました。でも3日過ぎにはほとんどいなくなりましたね。
私は、体育館の鍵も持っているんですけども、体育館も開けて、そこで走り回っていた子もいました。
聞き手
夜、みんなで寝ている時に、子どもの泣き声がうるさいとか、トイレに行く足音などのトラブルなどはありませんでしたか。
小橋さん
杖をついて歩く人がトイレに行くとき、杖の音が響くので、音を吸収するシートを敷いたりしました。
夜というと、一番不便だったのは、電気のスイッチが1つだけで、点けるか消すかの2択しかないことでした。センターが泊まる想定で作られていないからかな。町に相談しているのですが。
聞き手
非常灯のようなものがないという事ですよね。
小橋さん
ないです。しばらくしたら、懐中電灯が届いて、各区画に置けるようになったんですけど、最初の頃はトラブルが起きるかもしれないから、真っ暗にできないということがありました。
避難所での感染対策
聞き手
感染症対策で、換気などは頻繁にされていましたか。
小橋さん
換気は、タイマーをかけて、黒板にも書いて、1時間半に1回は必ずしていました。全部の窓を開けて徹底しました。割と暖かかったから、換気しても寒いということはあまりなかったような気もします。
避難訓練について
聞き手
避難訓練や防災訓練などは事前に行なっていたのでしょうか。
小橋さん
このセンターが建ってから、1度だけ地区の住民でやりました。またしようと思いながら、地震の影響もあってなかなかできていないですけど、消火訓練みたいなこともできたらいいなと思っています。お年寄りが多くなってきたから、最低限、消火器の使い方を覚えるようにしようと。
聞き手
被災地から別の地域へ避難する人もいましたか。
小橋さん
自分で運転していった人もいますし、自分で行く手段がない人は、子どもが迎えに来たりしていました。
免許を返納した人も何人かいましたが、誰かが乗せて行くという場面もあって、なんとかなったのかなと思います。
聞き手
このセンターでは電話がしばらく繋がらなかったという話もお聞きしたんですけど、安否確認はどのようにご対応されたのでしょうか。
小橋さん
安否確認は、家にいないので携帯電話だけでした。そのため、家に電話をかけても通じないという話はありました。
聞き手
早いうちに名簿をお作りになったのがよかったのですかね。
小橋さん
それはあります。名前もそれなりに分かるので、安否確認の電話は1~2件くらいしかなかったです。
聞き手
都会では、顔も名前も知らない状態から始まりますけど、この地区ではスムーズに行えたという事ですね。
小橋さん
そうですね。

伝える
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