石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 避難所・避難生活

白丸公民館における避難所運営を経験して

白丸公民館長(当時) 神田幸夫さん
体験内容
白丸公民館避難所の運営に尽力
場所 能登町
聞き取り日 2025年9月5日

震災発生時の状況と避難所の運営開始

震災発生時は何をされていましたか。

私は2024年の6月末まで白丸公民館の館長を務めていました。

震災が発生した1月1日16時10分、私は珠洲市の神社に初詣に行った帰りで、車を運転中に地震に遭ったんです。倒木などで道路が通行止めになりました。

公民館に到着したのはいつですか。

震災発生から丸一日以上経った1月2日の14時です。

まず、珠洲市から戻る途中で津波が来ると聞いたため、他の住民と一緒に高台へ1時間ほど避難し、一晩は近くの本小学校の避難所の駐車場で過ごしました。

翌日の11時半頃に、迂回ルートを通って白丸公民館を目指しました。到着したのが14時頃のことです。

公民館が避難所として開かれた経緯を教えてください。

実は、館長や町職員など、鍵を持つ者3人とも正月で遠方におり、誰もすぐに駆けつけられなかったんです。しかし、避難所は開いていました。

年末に私が玄関の鍵を閉め忘れており、津波から避難してきた近隣住民が、公民館横の工事用トイレを使おうとして扉を開けたところ、開いていたため、そのまま入ったとのことでした。

避難所運営について、最初は誰が担っていたのですか。

私が到着する1月2日の14時までは、公民館に入った地元の方々、町内会長や役員の方が事務室を開けて、自主的に運営されていました。

避難所の収容人数はどれくらいでしたか。

当時、この公民館は工事中で、パーテーションが中に置いてあったり、廊下は足場が組んであったりしたんです。そのような中で、避難所の中と駐車場や事務室などで過ごしている方も含めて、1月2日の時点では188人の避難者がおり、寝返りも打てないほどの状況でした。私も1週間はパイプ椅子で過ごしました。

帰省者が多かったため、見慣れない人が多く、行ったときは驚きました。1月6日までは100人を超えていましたが、1週間ほどで帰省者が帰宅して減っていきました。

体調を崩す方や感染症にかかった方はいましたか。

体調不良の方もいて、3日には救急車を要請しましたが、全然来ないので、現役の方や元看護師の方に対応してもらっていました。

1月10日には、インフルエンザにかかった方が1人出たんです。その後は、発熱した方が続々出てきました。

ライフラインと物資の状況

公民館の状況はどうでしたか。

幸い停電はなく、地震前に交換したばかりのエアコン7台が使えたため、比較的暖かく過ごせました。水道は当然断水です。電話は、固定電話は使用可能でしたが、携帯電話はほとんど使えない。

トイレは、合併浄化槽が大丈夫だったので、農業用水を汲んできてバケツリレーで流し、仮設トイレを設置せずに既存のトイレを使うことができました。

支援物資の状況について教えてください。

1月24日にダンボールベッドを設置したことが大きかったです。ダンボールベッドを入れ、仕切りも設置したことで落ち着いてくる人も増えてきました。能登町としては、16日から順次、各避難所にダンボールベッドを設置していましたが、避難者の数や足場などの状況もあって、ここは一週間くらい入れるのが遅くなっています。

町からの飲料水や非常食が1月2日には届き、3日には給水車、5日から自衛隊が来て7日から常駐してくれたため、飲料水には不自由しませんでした。

調理室が工事中だったため、炊き出しボランティアには調理済みのものを持ってきてもらうよう依頼しました。電気が使えたため、無洗米と炊飯器でご飯を炊くことはできました。

あとは古着が多く届いたのですが、管理が非常に難しくて困るんです。サイズや数がバラバラで、広げる場所もなく、避難者全員に配ることもできなかったため、断らざるを得ない物資もありました。

支援物資が玄関に多くたまってきて困ったので、工事現場のプレハブ倉庫を借り受け、物資置き場とインフルエンザに感染した方の隔離場所として活用しました。

お風呂はどうしていましたか。

松波中学校で自衛隊の方がお風呂を用意してくださっていたので、そこに入りに行っていました。車のない方には、社会福祉協議会の方がバスを出してくださいました。

避難所運営の工夫と課題

館長として最も注力した業務は何ですか。

ボランティア、DMAT、報道機関など外部からの来訪者への対応です。私が一括して窓口となり、適切な担当者に取り次ぎました

他県の職員の方に、避難所の運営や掃除の支援に入ってもらって、ボランティアの方が炊き出しを行うときの配膳の手伝いにもまわっていただきました。

避難者同士のトラブルはありましたか。

精神状態が普通ではないため、避難者同士のトラブルは当然あります。一時的に避難所を離れる人が場所取りのために荷物を置いたままにしたり、ダンボールベッド設置時に荷物を移動させたりしたときに、怒鳴り合いになることもありました。

避難所名簿や安否確認の課題は何ですか。

町内会長が管理しやすい名簿を持っていたので、それを通じて安否確認をしたんです。公的な避難所名簿はありませんでした。

安否確認の電話がひっきりなしにかかってきて、 帰省者などで避難者の情報がすぐ分からない場合、電話が長くなってしまったのは失敗だったなと思っています。

外部支援の撤退後、どのように運営しましたか。

2月7日まで常駐していた町職員や茨城県、宮城県など他からの支援者が2月8日から撤退することになり、運営を公民館職員と避難者だけで行うことになりました。これに対し、私は即答で受け入れ、避難者に協力を呼びかけました。

避難者から自発的な運営協力はありましたか。

そうですね。避難者に「一人一役」をお願いしたところ、ある避難者の方が「都合が悪い時はお互いに協力して」という文言を添えた役割分担表を作成し、皆がよく見える談話ホールに貼り出したんです。おかげで、約50日間、非常に良い運営ができました。

何か心に残ったことはありますか。

生後10日の赤ん坊のミルクがなくなった際、町職員が3〜4時間かけてドラッグストアまで買いに走ってくれたり、101歳の高齢者のおむつ交換について、その方のご家族ではない大学院生が「私が着替えさせます」と名乗り出てくれたりしたことです。

被災経験を振り返って

今回の経験から得た教訓は何ですか。

自主防災組織や町内会のつながりといった共助が非常に機能したことが、被害の規模の割に犠牲者が少なかった要因だと思います。避難誘導看板なども有効でした。

正月などに災害があった時、責任者が駆けつけられない事態を想定して、避難所の鍵の管理について、例えばキーボックスや自販機を活用するなど、今後、議論すべきことだと思います。 マニュアルは当然前提ですが、マニュアルにないことが起きたときに、自分で、皆でどうしたらできるかを考える力が非常に重要だと感じました。

当時の経験を語る神田さん

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