体験を語る
- 避難所・避難生活
地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活

| 場所 | 志賀町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月3日 |
被災当初の状況
聞き手
被災してから避難所を開設するまでの流れをお伺いしたいです。
相畑(毅)さん
1月1日ということで孫達が里帰りに来ていて、16時10分頃はちょうど一部屋に家族全員が集まっている状況でした。最初の地震のときは、今までに珠洲方面でたくさん地震があったので「それの余震かな」と思っていたのですが、2回目の地震があまりにも大きかったので、念のためみんなで外へ避難しました。
私は当時、地区会長をしていました。この熊野交流センターの避難所は、区長会の判断で開設するという決まりになっていたので、妻と一緒に、地震が起こった後すぐに駆けつけました。
駆けつけた時には、既に山本洋子さんが来て、掃除をしてくれていたため、非常にスムーズに避難所の立ち上げができたと思っています。
ただ、この建物は、避難するための設備や備品等は何もなかったんです。また、この地区は1月1日の夕方から3日間停電があり、避難所を立ち上げた17時過ぎには、すでに薄暗い状態でした。当時、区長会の三役のうち、大瀧さんは地震の影響で出てこられないということで、私と山古さんと小滝さんの三人で準備をしました。「やっぱり照明が要る」という話になり、小滝さんが草木区の区長をしており、そちらに発電機があるということで、発電機と投光器を持ってきてもらいました。また、冬なので暖房も必要と思い、神社にあっただるまストーブも持ってきました。そういったものを集めて、とりあえず一晩過ごしました。
聞き手
元々避難所として指定されていなかった場所を、避難所として使う形だったのでしょうか。
相畑(毅)さん
そうです。



避難所の食事
聞き手
備蓄などの準備がない状態で、色々工夫されて環境を整えたということで、ご飯はどうなさったのですか。
相畑(毅)さん
地区の町会議員も駆けつけてくれました。その議員から、嫁ぎ先の地区で電気が点いていたという情報を聞き、炊飯器でご飯を炊いて来てもらって、おにぎりを作って配ったんです。ただ、その議員にも迷惑がかかりますし、それは2回だけにして、その後は、ガスの炊飯器があったので、それを持ってきてご飯を炊きました。
たまたま、この地区は、農業が主体の地域で、お米などは各家庭に備蓄してあったので、それを持ってきました。炊飯は、山本洋子さんにリーダー的な立場で引っ張っていただきました。
聞き手
ご飯はどんなものでしたか。
山本(洋)さん
1月1日だったことや電気が来てなかったこともあり、「冷蔵庫や冷凍庫にあるものが痛むから」ということで、避難された皆さんから頂いたものがありました。食器がなかったので初日はおにぎりにしましたけど、その後はできるだけ食器を使って皆さんに提供しました。
すごく地域の人の協力があって、大根や白菜といった野菜とか、皆さんから頂いたものを使ってお料理を提供しました。それから、日が経つ毎に皆さんから持ってきていただくものの量が多くなったので、備蓄がなくても料理は簡単にできたんです。皆さんの好きそうなものを作ったり、おやつも作ったりしました。
私と相畑さんの奥さん、あともう1人の避難してきた若い方で一生懸命やっていたら、避難された人も食器を並べるなど、手伝ってくださいました。
聞き手
非常時ということで困ることはありましたか。
山本(洋)さん
台所の狭さとお鍋がないことです。台所はIH、お鍋も小さい1升5合くらいの、お湯を沸かせるくらいのもの、やかんもそんな程度なので、何十人分の食事を用意するのは難しかったです。
IHは全く役に立たないので、公民館のだるまストーブを使って、みんなが大きい鍋やボウルを持ってきてくれました。「なんか無かったら持ってきてあげようか」と言う人もいて、地域の人の厚意がすごくありがたかったです。 一番困ったのは食器ですね。皆さん寄り合って食事をすると、何十食と作りますから、紙コップやお皿、ああいうものが最終的に全然足りなくなりました。やっぱり避難所にはこういうものが必要だなと思いました。
聞き手
ご自宅にある食器は、地震で割れて使えなくなりましたか。
山本(洋)さん
家に帰ったらほとんど割れていましたね。
聞き手
他の避難所では、食料があんまりない、あっても大変だったという話があったんですけど、ここは料理が多くて食器が足りなかったんですね。
山本(洋)さん
紙コップとかを使い慣れると、皆すぐ捨てるようになるんですね。なので、私はここにある食器をなるべく使っていました。でも、洗うのにも水が足りないから、紙コップや紙皿が町から支給されたら良いなとは思いました。
私は赤十字奉仕団で、非常時のために新聞を折ったものを食器にして、おつゆを入れたりご飯を入れたりすることも習っていたので、みんなそういうことができると思っていたんです。便利な生活に慣れると、こういう非常時にもみんな当たり前のように、自分の家でものを捨てるような感覚で捨ててしまうので、日頃から訓練したり教えたりしないといけないなと思いましたね。
最初のうちは紙の食器が結構あったんですが、1回紙コップで飲むと捨てる方が多くて、すぐなくなりました。私は「1日それを使ってください」と言いましたが、守る人はいません。「不潔で病気になる」という理屈は分かりますが、避難生活があと何日続くかは分からないですし、そういう知識というのは、町や専門の人がみんなに教えてくれた方がいいなと思いましたね。
相畑(毅)さん
この避難所は横に体育館があるんですが、天井が壊れて使えなかったんです。それで、センターのホールだけを避難所として使いました。2階は階段が急でトイレもなくて、老人が多かった関係上、1階のホールを中心に、最大60人くらいがいました。そういう関係で料理の方も賄えたんじゃないかなと思います。 多分100人、200人が避難していたら、とてもじゃないけども、これだけのスタッフでは賄いきれなかった。規模的にもちょうどよくて、地域柄いろんな食材を皆さん持ってきてくれたのもあるし、たまたまいろんな知識を持ったリーダーがいたので、非常に助かりました。
山本(洋)さん
台所は狭すぎて、3人で入ったらもう何にもできない。食材も外で洗ってこなきゃいけない。電気釜1個では、とてもじゃないけど足りないですし、ガス釜で炊くのも慣れていなくて、固くなったり焦げたりしないように2台のガス釜を使っていました。
調味料もここには全然なくて、買いに行かなきゃいけないし、お金を誰が出すのかという問題も発生しますよね。「もう、そんなことを言っている間がないから、自腹でいいわ」と思って買い集めました。インスタント味噌汁のお味噌や、焼きそばのタレなんかを調味料として使ったり、家に貯めてあったものを持ってきたりして、安くなるようにしていました。
そういう不便な点がいっぱいあったから、作る方としては簡単じゃなかったです。
朝食の後おやつを準備して、次はお昼の時間になって、全然余裕がありませんでした。私たち3人は、8日間くらい椅子に座って寝ていたんです。調理に関しては、協力してくれる人が少なかったですね。
聞き手
高齢の方が多かったのもあるんですかね。
山本(洋)さん
高齢の方が多かったのもあるし、家族で来ていても、その人の面倒を見るので手一杯って感じなんですよ。隣の人に気を使ったりもしますし。

支援物資の状況
聞き手
水道は使えましたか。
相畑(毅)さん
たまたまこの施設の屋上に貯水槽があり、そこから2日ぐらいは水が出たので、飲料水はそれでなんとかできたと思います。
あと、この建物には、以前使っていた地区の簡易水道があり、そこから水が出たんです。水質検査はしていないので、手洗いや洗い物などに利用しました。

聞き手
トイレはどうでしたか。
山本(洋)さん
トイレも水は流れません。ただ、割とすぐ、みんな袋に入れたり新聞を敷いたりしていました。それは知識があったおかげですね。
相畑(毅)さん
仮設トイレは10日くらいに町が設置したと思います。自衛隊の仮設風呂が11日か12日に設置されました。
山本(洋)さん
最終的には和式と洋式とで7台来ましたね。そのトイレの掃除も私たちで一生懸命やりました。自分の家のトイレが使えないからってトイレを済ませにくる人もいて、自衛隊の人が「大変だろうから」って、外のトイレをみんな掃除してくれて、ものすごく助かりました。
聞き手
他の避難所だと、避難されて2 日目くらいで、帰省していたお子さんと一緒に出て行かれた方も多かったのですけど、ここではどうでしたか。
山本(洋)さん
2、3週間経ってからですね、向かえに来たのは。
相畑(毅)さん
最大が60人で、最終的には20人くらいでしたね。
山本(洋)さん
家にいる人でも、買い物に行けない人や作れない人にも食事を配ったので、結局、用意する量はあまり変わらなかったです。
相畑(美)さん
民生委員の人が、一人暮らしの方とかを確認して取りに来ていました。
相畑(毅)さん
そのうち支援物資がどんどん入ってきたので、それを地区内の行き届いていない人に届けようということで、区長や民生委員の人に協力してもらいました。
山本(洋)さん
おにぎりも1日経つと硬くなるから、お粥にするというようにして使いました。余ったものは全部冷凍しておいて、それを利用してあたたかいご飯を作りましたね。
山本(秀)さん
私は自宅に待機していたけど、物資を配給していたことも知らなかったし、貰ったこともないです。取りに行っている人から声もかかってないですし、荒屋の集会所に行ったときに、カップラーメンや水が置いてあったのを見ただけです。
1日おきに、金沢の娘のところへ通っていたので、金沢へ出た時に買い物をして帰って、の繰り返しでした。
聞き手
家に居ても情報が届くようなシステムがなかったということですかね。
相畑(毅)さん
一応、区長会の中では、情報をLINEで流していました。でも、それが地区の住民全体に行き届いたかっていうと、難しいところがありますね。
大瀧さん
区長さんたちが全員集まった時に「各地区で水や食料が欲しいという話があったら届ける」という形で会長からお話しはされていたんですね。あとは各地区の区長さんがそれを地区内の人たちに話したかどうかということで、結局バラバラにここに物資を取りに来るという、少し悪いほうに行ってしまった経緯があります。
聞き手
元々こうしようっていう取り決めがあったわけではないと思いますし、仕方ない面もあるでしょうね。
山本(秀)さん
私は仕事場が輪島で、そこへ行くと、いろんな物資が会社の中へ持ってきてあるんですよ。こっちの情報が入って来なかったから、「うちのところには何も無いのに、なんで輪島にはこんなにいろんな種類の物資があるんだろう」って思っていました。

聞き手
町からの支援は早くからあったのですか。
相畑(毅)さん
当初、町からの支援はなかったんです。支援物資も入ってこなくて、本当に地区だけで運営していました。たまたま隣の地区の会長と情報交換した中で、隣の地区は町から職員も来て、支援してくれていると聞きました。それで役場に連絡したら、それからここへも職員が派遣されて来て対応してくれました。最初の3日間はこのメンバーで運営しています。
聞き手
他の地域の話を聞くまでは、役場に連絡はしていなかったのですか。
相畑(毅)さん
開設の当日、役場には、熊野交流センターに避難所を開設したという連絡はしました。
山本(洋)さん
体育館や大きいホールで何百人と避難しているところへ行ったのだと思いますよ。
自衛隊のお風呂について
大瀧さん
最初の頃は自衛隊のお風呂へ入りに来る人数も少なかったんです。それで自分が会長に「隣の区の会長さんに話して、隣の区からも入れるということを連絡したらいいんじゃないですか」と話したら、会長がすぐ連絡してくださって、隣の直海地区の人が入りに来るようになりました。
あと、自分がここで当番をしているときに、中島のほうから人が来て、「お風呂に入ってもいいですか」って言うから、「どうぞ」っていうことで入れるようにしていたら、いつの間にか、すごい行列になっちゃって。
山本(洋)さん
300人ほど来ていましたね。
村松さん
ほとんど知らない人ばかりでしたね。中島にも自衛隊のお風呂はあったけど、そこに行くと「どこから来たのか」って聞かれるみたいで、それが嫌でこっちに入りに来たというのは聞きました。
山本(洋)さん
七尾から、羽咋から、遠いところは穴水の人も来ていました。自衛隊の人が石川県の地図を書いて、どこから来たかシールを貼っていました。
それから、富来にもお風呂はあったんですけど、海の方にあって、広いし、みんなも通いやすいけど、海が荒れたとかですぐ中止になるんですね。そうすると、こっちの方が確実だからってこっちへ来ていた人もいました。


大瀧さん
自分はある方の入浴介助をしていたんです。第1陣の自衛隊の方は、ヘルパーの資格を持っていて、お風呂に入れてくださったらしいんです。交代した後の部隊には資格を持っている方がいなかったんですが、最初はプールみたいな形で跨いでお風呂に入っていたのが、足場となる階段を作ってくれたので、これなら入れられるなと思って、その方の入浴介助をずっとしていました。
自衛隊の方も、やる気がすごくあって、私の介助の仕方をすぐに覚えて、手伝ってくれて、最終的には2日おきという感じでお風呂に入れていました。
自分はもう普通のことだと思ってやっていましたけど、避難所でそういう入浴介助の必要な人もいることも頭に入れておかないといけないと思いましたね。
山本(洋)さん
男性は、自衛隊の方も、大瀧さんもいらしたんですけど、女性は、女性の自衛官がいなかったんです。
それで、介助しなきゃいけない女性は3人いたかな。大変なんですよ。その人を13時から、1番に入れて、最初のうちは入浴させてあげて、髪も乾かしてと、いろいろしていたんですけど、そうしていると、おやつの時間も間に合わないし、それが済んだら次は夕食を作らなきゃいけない。そうなると私たちも参ってしまいますし、女性の自衛官に女性の介助できる人がいないから、一緒に入ってくださいって言われたんです。
13時から13時半くらいまで、1人15分と決まっていたので、それでお風呂からあげるとすると、今度は自分たちの体を洗うのも、ものすごく時間が詰まってきて大変でした。
それでもなんとかできていたんですけど、今度は「あの人たちだけ先に入るのはおかしい」というクレームが出てきて、「後にしてもらえないか」と言われたんですけど、そうすると私たちの入る時間がなくなるので、そこは交渉してクリアしていきました。
皆さん入浴するために行列していて、「早く入らないと汚いんじゃないか」っていう人もいました。ものすごくお湯を入れてくれるので、きれいなお風呂でしたけどね。
これも地域の人でヘルパーの資格を持っている人が協力してくれたらよかったなと思います。
相畑(毅)さん
あとは自衛隊の皆さん、隊長さんも含めて、非常に優しくて、住民に寄り添ってくれて、毎日のように「困ったことないですか。なんか要望ありませんか」って聞いてくれました。さっき大瀧さんの言われた、お風呂に入るときの階段も、提案したらすぐ設置してくれたんです。
あと、結構人が増えてきたということで、当初洗い場も5つしかなかったんですけど、男性が8、女性が11かな、増設してくれましたし、真剣に声を聞いてくれて、非常に助かりました。

コロナやインフルなどへの対応
聞き手
他の避難所では、コロナやインフルエンザなど、具合が悪い方を隔離したというお話があったんですけど、こちらではどうでしたか。
大瀧さん
体育館の倉庫に入っている荷物を全部出して、洗剤で床から棚まで全部拭いて、そこを感染した方を入れる場所にしました。体育館の出口に大きいテントを置いて、その中にトイレも設置しました。
自分がまずこちらに来た時、避難されている方に「薬は大丈夫ですか」とお聞きしました。薬はやはり大切なもので、薬がなくなってくると、どうしても怖さが出てくるんですよ。それで、この地区の町会議員さんに「まず薬を確保してほしい」と頼んで、あちこちの薬局に当たってもらいました。その後は、佐賀県から健康面を見てくれる方たちが来てくださって、その方にお薬のこともお願いしたので、問題がなくなりました。
感染の予防に関しては、まず朝、酸素飽和度と体温を毎日測って、あとは食後、3、4時間おきに、換気も兼ねて窓を開けて、掃除機をかけて、塩素系の洗剤で床や手すり、スリッパ、テーブルなど全部除菌しました。おかげで、コロナは1件だけあったんですけど、インフルエンザは抑えられました。
1つ分かったことがあって、床にそのまま布団を敷いて寝るときと、段ボールベッドをして寝るときだと、段ボールベッドにしたときの方が、埃が多くて掃除が大変になるということです。これは「こんなに違うんだ」と思いましたね。
聞き手
段ボールベッドを利用されていたんですか。
相畑(毅)さん
段ボールベッドは、1月中旬以降に設置されました。避難所を立ち上げたときには本当に何もないので、1階もフローリングの状態だったんです。たまたま体育館の天井から落下していたマットがあったので、それを敷いたんですけど、ガラス系の物質を含んだ物だというのが後で分かって撤去しました。
それでも、ちょうどいいクッションだったので、その上に皆さんが家から持ってきた毛布を敷いたり掛けたりしていました。
それも全部捨てる予定のものだったんですけど、あって助かりましたね。床で寝ても温かくないですから。
聞き手
1階のホールで皆さん布団を敷いて寝ていたんですか。
相畑(毅)さん
避難した人が毛布などを持ってきていたので、今言ったマットや、天井から落ちた断熱シートを下に敷いて、その上に毛布を敷きました。でも全く足りなかったので、私たちはパイプ椅子を並べて横になって過ごしました。
山本(洋)さん
だるまストーブを2、3台、夜中もずっと焚いておかないといけなくて。火の様子も見たり、途中で灯油も入れたりしなきゃならないので、私たちも自宅に帰らずに、椅子に3人で過ごしました。
聞き手
灯油はどのように補給されていましたか。
相畑(毅)さん
公民館や地区内の神社のだるまストーブだったので,灯油も一緒に持ってきてくれました。発電機とガソリンも、たまたま保管してあったものを持ってきてもらいました。その後、支援物資として灯油を持ってくれた人もいますし、町から定期的に配送してもらしました。
避難所の設備
相畑(毅)さん
山古さんは、公民館の仕事をしている関係で公民館のネットワークもあって、それで公民館の品物をこちらへ持ってきたり、他の地区の公民館から電子レンジなどを手配してくれたりしました。地域のネットワークの非常にいいつながりがあったなと思っています。
山古さん
隣の地区の避難所が解消されたとき、ここで電子レンジが必要ということで、もう使わなくなった大きめの電子レンジを借りてきました。
この避難所で必要なものをリストで町に報告したら、1ヶ月くらい経ってからネットで寄付してくれる人もいたのですが、その電子レンジが小さかったんです。コンビニの弁当が入らないサイズで、町から弁当やおにぎりが来てもあたためられないので、隣の公民館から借りてきました。
この地区にも公民館があるんですけど、そこも被災して、天井や壁が落ちて、台所も使えませんでした。なので、そこからここへ冷蔵庫と灯油、丸ストーブを運びました。
聞き手
冷蔵庫などは持ってきた発電機で動かしていたんですか。
相畑(毅)さん
発電機は照明だけですね。
相畑(美)さん
テレビもなかったかな。
山古さん
テレビはちょっと経ってからです。テレビは、公民館にあったものが倒れてしまったのですが、確認したら一応見られたので、避難している人のところに設置しました。ここでは全然情報を取得する手段がなかったので。
聞き手
ラジオも繋がらなかったのですか。
山本さん
ラジオは、支援物資で入ってきたんですけど、電波が入りません。 携帯もつながらないんです。
KDDIが九州から来て、緊急時のアンテナを屋上に上げても電波が弱くて、最終的にはグラウンドにアンテナを設置したんですけど、使えなかったですね。 その後、ソフトバンクがWI-FIを設置してくれて、充電器もくれました。
被災当時の安否確認
聞き手
被災当初、ご家族との安否の連絡はどのように取られていましたか。
相畑(毅)さん
地区全体としての動きはなかったので、少し反省するところです。
ここに避難した人に関しては、黒板に名前や連絡先を書いてもらうようにして、連絡ができる体制にはしました。それも事前に準備して、入所した日や退所した日、1日外出した日などが分かるような様式にすれば良かったなと反省しています。
聞き手
出入りが分かりにくくて苦労したということはありますか。
山本(洋)さん
1階のホールだけで、常に顔が見られる状態ですし、入り口は一つだから、誰がどこに行ったかは分かりました。
相畑(毅)さん
役場から何人避難して来ているか、という問い合わせがあるので、そのためにもう少し分かりやすい様式を作って対応すればよかったかなとは思いました。当時はそこまで準備もしてなかったし、とりあえず今誰が避難しているか分かればいいということで、黒板に名前を書いてもらったという状況です。
防災意識について
聞き手
被災する前から、避難訓練は行われていますか。
相畑(毅)さん
地区としては一切していません。
大瀧さん
やっぱり石川県って地震が少ないイメージがあるんですね。それでいざ地震が起きた時は結構大きい地震が多い。そうすると、行政や町民も地震に対しての意識が低かった。だから役場にしても、いざ地震が起きても何をしたらいいか誰も分からなくて、対応が遅れる。
山本(洋)さん
原子力関係の訓練は県でもしています。ただ、地域の人も入れて避難訓練をしてくださいって言っているけど、それはできていません。この辺の人は、洪水の対応もしてないし、地震の対応もしてないから、奥能登みたいなことになったら本当に大変だと思います。
あの時、地震と同時に雨でも降ってきたら、近くの小さな川が氾濫して、わずかな距離でも来られないのと、年寄りだけで避難してくるのも無理ですからね。そういう訓練を今までしようと言っても、賛成する人が少なかったんですよ。そういう意識がないから。
聞き手
私は小松市に住んでいて、大雨の被害があったとき、祖父の家が氾濫した地域の近くにあって、家の前の駐車場で大きな土砂崩れが起きました。大丈夫だったんですけど、避難してなかったら危なかったかなと思います。そのときの避難も、母親が説得してどうにか避難してもらったので、住民の方たち全員で意識を高めていくのが大事ですね。
県や町で講習を開くとか、積極的に参加してもらえるような意識づくりは大事かなと思います。
大瀧さん
必要だと思います。うちの娘は、高校2年のときに地震が起きて、高3になってから、防災士の資格を取ったんですけど、この地震を経験している今の若者たちに講習を受けさせて、防災士の資格を取ってもらったらいいと思うんですよ。防災士の資格を持っておくと、企業も評価して、内定につながる場合もありますし。
町の教育委員会が、防災士の講習を、夏休みや春休みにでも行なえば、若者一人一人が防災意識を持つことによって結構変わってくると思います。
震度7という、他の県でも出てない数字を自分たちは体験しているわけです。その記憶を風化させないためにも、防災士の資格を取らせるようにすれば、各家庭の防災意識がだんだん強くなりますよね。
村松さん
私は、今回の地震を踏まえたら、まず災害が起きたら区内で安否確認する体制づくりから始めていかないといけないと思いますね。民生委員さんもいるけど、全部できるわけはないから、町の在所で、水害や地震があったら「隣のばあちゃんいるか」とか、安否確認からまず行うような体制を取らないと。
しっかり防災計画を立てて出せば、発電機とかいろんなものを貰えるかもしれないけど、維持管理をしていかないと、いざという時にエンジンがかからないかもしれないし、そういうことも考えないといけないと思いますよ。
今まで幸いにも大きな災害がなかったし、今回も、この辺は地震が起きても津波の心配はなかった。家の1階が潰れてしまったというのもそんなにない。志賀町もひどいですけど、奥能登の惨状を見たら、もうとてもじゃないけど、比べるような状況ではないです。
私の知り合いで、門前の人ですけど、娘さんがコロナの前から里帰りできなくて、何年ぶりかに帰ってきていたそうです。娘さん2人と母親が1階にいて、2階建ての家の1階が潰れて、3人とも亡くなられたんです。それも平成19年の地震には潰れなかった家が、今回の地震では潰れたっていうようなことも聞いています。
山本(秀)さん
輪島は豪雨もあって、町野のほうなんかものすごくひどいですよ。家の中に泥が入ってしまって、今でも人がいないって聞きますね。家の中は泥だらけで、木も入ってきたから、亡くなった方もそこに入っていたかもしれんけど探せない、そんな状態になっている。
山本(洋)さん
ここは楽な方だったからこんなことも言っていられるのだろうね。だけど、もう1回何かあったら、私たちも危ないなと思うわ。今、公費解体で家がなくなって、風が素通りしてくるから、台風が一番怖い。そんな時でも避難する人もいるでしょうし。
村松さん
水害なのか、地震なのかによって、避難したところが安全なのかも慎重に考えないといけない。区長として地区を預かっていると、雨が降るから避難しましょうって言って無理に連れて出た先が安全なのかということを考えると、大変難しいと思います。
災害があった時に隣近所の人が無事にいるかの安否確認から、始めにやらないといけないというような話を、今年の1月頃の区の会合でしたんです。そこから始めて、だんだんステップアップして、防災計画を作るということもあるでしょうけども、安否確認もできないのにいきなり防災計画というのは、私は無理だと思います。
山本(洋)さん
西海のほうでは、近くに海があって津波の恐れがあるから、年に3回くらい、地域を挙げて防災訓練をずっとしていますね。そんな風に、もっと頻繁にやれば一番いいんだけど、ここは海がなくて、川があるだけなので。
山古さん
災害が発生した時、私は自宅で1人横になってテレビを見ていました。1回目の地震が来たとき、「いつもの地震だろうな」と思って寝ていたら2回目が来て、戸は全部外れるし、上にあるものは全部落ちたし、玄関はもう鍵が動かなくなってしまったという状況です。
それで、その日は電気も来ないし、夜なので、片付けは諦めて、車で一晩寝て、次の日もちょっと片付けたけど、寝る場所を確保できないので、2日目も車で寝ました。
ちょうど当時区長をしていたので、ここに避難所を開設するということで、5時半くらいに副区長と公民館から冷蔵庫や灯油などを運んできました。
困ったのは、水と電気とトイレと洗濯です。電気が一番早く来て、その後に水。水は井戸を持っている人からもらって、あとは給水タンクが工業団地やこの場所にあったので、それを利用しました。ポリタンクはホームセンターで品切れだったので、2Lのペットボトルとかを集めました。
私の家は1階と2階にトイレがあって、2階がタンクのトイレで、そこにペットボトル2本半の水を入れると流せました。そのうち、水が来てトイレは使えるようになったんです。それから、電気が来ないことで当然冷蔵庫や冷凍庫の中に入っていたものはアウトです。
そうしたこともあって、今現在持っているのは、水は20Lのポリ容器で3個、いろんな場所に置いてあります。あとはガソリン式の発電機が個人的には必要と思いますが、何万円もするものなので、例えば何割か補助が出れば、備えとして持っておきたいです。
それと、うちの地区は崖崩れが3件あったので、それも見に行かなくちゃいけなかった。その後2週間雨が降って、上乗せで崖崩れがあって、今度は戸まで被ったということで、夜8時くらいに、雨が降っている中で傘を差しながら確認して、その対処が一番大変だったと思います。
ここの避難所の立ち上げ当初、3、4日は町の職員の人が避難所を開設したということで常駐しなくちゃいけないんですよ。その後、愛知県の職員が当初1名、24時間体制で1、2週間いて、その後交代で別の愛知県職員の人が2週間ほどいて、その後から2人体制になって愛知県の人が来てくれました。5回くらい交代したかね。
その人たちの仕事は、避難している人の管理、トイレの掃除です。仮設トイレも全部掃除してくれました。あと避難所の区長さんや町との橋渡しとして、どういうものが必要か全部リストアップして、1日1回、町にリストを提出する。町がそれを見てここの避難所に持ってきてくれるという体制でした。
その後に自衛隊の仮設トイレが入ってきました。愛知県の方の応援と、自衛隊の仮設トイレと、いろんな県から給水車で来てくれる人、そういう人たちがありがたかったです。 愛知県から応援が来てくれるということで、区長会として何にもしないわけにはいかないということで、区長会長が区長を集めて、愛知県の職員の人と一緒に、日中朝8時半から18時まで、区長が交代でこの避難所に常駐する形にしていました。
大瀧さん
私は日用区長なんですけど、今は家が3軒しかないんですよ。2軒の住民の方にいつも話しているのは、まず食料を2週間分と、カセットコンロとガスボンベを6本から10本ぐらい。そして、電気が消えてなくなった時のことを考えて、キャンプの時のランタンを用意してもらっています。かなり持ちますし、すごく明るいんです。だからそれを用意してもらって、何かあった時でもちょっと我慢してねという感じにしています。
3軒なので、安否確認は、常にコミュニケーションを取っています。金沢の息子さんのところに行きますっていうときは連絡をいただきますし、「食料が欲しい」と言ったら食料を持っていくという形で、前もってそういう約束事を決めています。だから何かあってもみんな慌てることは多分ないですね。
ただ、「薬だけは気をつけてね」とは言っています。本当は、薬剤情報提供書とかを地区ごとに、集めて置いておけば、何かあった時に「この薬とこの薬がない」ってすぐ提示できると思うんです。そうすれば、前もって薬局などにもその情報を渡しておけば、在庫がなくなることもないですし、今はもうどこの小さな薬局でも、金沢とかの大きな病院の薬も調合してくれるので安心になるはずです。
個人情報のこともあるし、区長さんは大変ですし、無理かなと思っていますけど、そういう薬の管理も今後必要なのかなと考えています。
山古さん
災害とは関係ないけど、1人暮らしなので、何かあった時、救急隊員に分かるように、玄関にグリーンのシールを貼っています。それで、冷蔵庫に薬情報が入れてあるんです。
山本(洋)さん
外に貼っていると、悪いことをする人がいたら困るので、玄関のドアの内側に貼ってあります。それで、冷蔵庫のポケットに必ず保険証や薬手帳などの必要なものをまとめて入れるって、志賀町全体で決まっているんです。
本当は中身も変えていかないといけない。だけど、変えていなくても、大体いつ頃にどんなお薬を買ったか分かれば、それで連絡の取り合いができるからということで、民生委員で管理して、ほとんど入れました。
復興活動に関する困り事について
山本(秀)さん
私は家が国道の近くで、地震後に交通量が増えています。夜中にトラックが走ると、ものすごく揺れる。地震のこともあるし、やっぱりドキッとすることがあります。 県外から来る人は遠慮なしに走るでしょう。スピードも出しますし。
相畑(美)さん
近くの道路が毎日ドンっていう音がするんです。
大瀧さん
断層がずれたこともあって、道路のあちこちで固めてあったものがずれて、そこに空洞ができていると思うんですよ。そこに線状降水帯や台風の大雨が来たら、地面が一気にずれると思います。広範囲に道をつけるにしても、地盤をしっかり固めて作らないと、道路を作ってもずれることが長く続くんじゃないかなって見ています。
山本(秀)さん
道路も、きちんと切り開いて直してくれれば、そこまで傷まないのに、ただ穴が開いているところにアスファルトを詰めていくだけだから、そこへ車が行ったり来たりするとすぐ捲れて駄目になってしまう。それの繰り返しで無駄だなと思いますよ。
相畑(毅)さん
被害が莫大すぎて、優先順位をつけてやるので、ここの町道なんかは直すまで数年かかります。
山本(洋)さん
国道の公衆トイレの掃除が行き届いてないことにも困りましたね。一度入ってみたんですけど、便座の上から30cmの便の山になっていたんですよ。それに、ペーパーも何もない。その横にも仮設トイレが男女3つずつぐらいあったんですけど、みんな一緒です。とてもじゃないけど入れるようなところではなかった。設置するなら管理を最後までしないと。
町や県がしてくれるといいんですけど、「あれは県のものだけど町が管理している」とか「シルバー人材センターの人が管理している」と言って、みんな責任逃れしています。どこへ言っても管理してくれる人がいない。シルバーの人たちも、みんな自分の家が大変なのに、1時間800円の給料で掃除しているわけにもいかないし、嫌になったっていう人もいっぱいいます。そこまで面倒を見てくれるように指導をして、みんなにも意識を持ってほしいと思いました。
支援にはすごく感謝しているんですけど、ダンプなどの車がバス停の前に5、6台、夜から朝まで並んでいるんです。通学の子どもと一緒の時間帯に出発していたので、出る時間をもう5分ずらしてくださいってお願いしました。そういうことも町のほうではあんまり把握していないのかなと思います。
熊野交流センターの避難所運営に関わって
相畑(毅)さん
この避難所は、たまたま地域内の農家が多く食材も豊富にあり、食材を提供してくれる人もいました。自衛隊の仮設浴場が校内に設置された、ということで、いろんな条件が重なって、普通の避難所から見ると衛生面などでは良かったと思っています。
あと、当初、私は24時間、1週間ほどずっと詰めていたんですけれども、これだけ長くなるというイメージはなかったので、これは大変だなということで、区長を全部集めて、出られる区長で輪番制、交代制で動いてもらいました。 本当に初めての経験であり、全く何も分からない、何もできない中で、やっぱり皆さんの協力がなかったらやっていけなかったなと思っています。
山本(洋)さん
本当に、食べるものからお水から、すべてみんな協力してくれたっていうところがよかったところですね。

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「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
鹿頭地区区長
小橋敦郎さん
「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
領家町区長 山本政人さん、領家町区民 東澄江さん
「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
前福浦区長 能崎亮一さん、福浦公民館長 松井 正浩さん、福浦区長(前副区長) 濱村 大さん
「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
前川悟さん
「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
堂下健一さん
「街の人だけの避難所」 -
地頭町区長
坂野満さん
「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
白丸公民館長(当時)
神田幸夫さん
「白丸公民館における避難所運営を経験して」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

