体験を語る
- 消防
災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感

| 場所 | 能登町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月5日 |
地震発生当初~救助活動の開始
聞き手
地震が発生した後、避難するまでの状況を教えていただきたいです。
金七さん
本震の四分前の地震があったとき、家の中には、本来2人のところ、娘と孫2人、あと東京から妹夫婦と甥っ子が来て、合計8人いました。やっぱり子どもたちも怖がっていたので、落ち着かせて、家の周りも確認して、「大丈夫だろう」ってまた中に入って、正月のこれから一番ゆっくりする時間なので楽しみましょうって言ってしばらくしてから、私の住んでいるところでは震度6強です。もう今まで感じたことのない、全然違う揺れで、うちは全壊ではないものの、これは危ないなと外に出て、みんなを落ち着かせていました。
「二軒隣の家が潰れて3人埋まっている、なんとかみんなで助けてくれ」ということで、妹と妹の旦那さんに、とにかくみんなを連れて小学校に上がってくれと伝えて、私はそこへ駆けつけました。幸いにも3人のうち2人はすぐ引っ張り出されたのですが、一人の子はちょっと挟まっていた。もう周りは近所の人しかいないので、パッと思いついて、車のジャッキを持ってきてくれと言って、1本だとそんなに重いものは乗せられないので、2本持ってきてもらって、皆さんと協力しながら、柱と土台の間に2本ずつかけて隙間を作り、30分ぐらいかかって、最後の一人を救出しました。
そうしていると、また隣の方で91歳のおばあさんが埋まっていると。その潰れ方の状態を見たら、もうどうやっても素人には手出しできん。私は、消防団に入っておりますので、ともかく消防団で人を集めないとだめだと。家族の方に、申し訳ないが必ず来るからもう少し待ってくれと伝えて、消防の分団所へ行きました。
向かう途中、100メートルぐらい離れたところで、子供2人とお母さん1人の計3人が埋まっていると。ここまで来たら、みんなを集めて行こうということで、子供2人とお母さんが待っているところへ行きました。人も揃っていたので、消防団にも大工さんとか屋根仕事をしたり、板金仕事をしたりする職人の方もいらっしゃいます。そちらの方にいろんな機材を持ってきてもらって、屋根から穴を開けて救出するようなことも、その時は消防団でやっていました。
そういう活動をしていたので、避難所にも行ったのですが、人がいるかいないかの情報をもらうために行っていたって感じですかね。携帯電話も何も全然繋がらないので、向こうで情報を収集してっていうところです。私は避難していないので、消防活動をずっと 1ヶ月半はやっていました。
聞き手
救助活動を行っていたとのことですが、津波の心配はなかったのですか。
金七さん
もちろん、ありました。でももう歩いて出てきて、車も乗ってなかったので、ラジオも聞けないし、携帯は完全にだめだし。中学生2人とお母さん1人を助けている時、19時、20時ぐらいだったかに、お巡りさんが走って来て、大津波警報が出ているというのを初めて聞きました。それでも目の前に子供2人埋まっているのにそれどころじゃなくて。でもやっぱり後に思ったのは、私も消防団の副団長という肩書きを持っていて、そこで若い子たちを働かせたのは、今でもどっちが正しいか悩んでいます。最後には中学生の方が一人亡くなったのですが、どうしようもなくて。私は正解やと思っているけど、本当に大津波が来たらそこの場所も巻き込まれたのかなと思うと、今でも悩んでいます。
聞き手
お住まいの地区はどこなのですか。
金七さん
松波地区です。津波の可能性もありました。後で聞いたらちょっと来ていたそうです。
聞き手
1月2日以降も、避難所での生活というよりはレスキューの方にご尽力されていたということですね。
金七さん
もちろん、避難所にも顔は出していましたが、当時は職員もなかなか集まってこられない状態で、鍵も開かない避難所もあって、行ったり来たりを繰り返していました。
それでもまずは人命救助を最優先にして動いていました。夜の22時ごろには火災も発生しました。無線も通じない中で、救助活動は7人中6人を助け終わっていたので、若手の団員に「どこか火が出ていないか、変わったことがないか、高台から周りの様子を見てきてくれ」と指示を出したんです。すると、「白丸地区の方が真っ赤に燃えている」と報告があって、すぐに火災だと判断し、4人を先発隊として現場へ送りました。その夜は、翌朝6時までずっと消火活動が続きました。
2日の朝に、火災が落ち着いてから、近くの農協に食料をもらいに行きました。ただ、田舎なので2日から営業している店は少なくて、たいてい初売りは3日からです。だからパンや弁当のようなものは全くなくて、食べられるものといえばお菓子やチョコレートぐらいしかない。それを少し分けてもらって、避難所に持っていきました。そのあと中学校へ戻って、行方不明者ボードを確認。そこに載っている人の家を消防団が手分けして訪ねていき、潰れた家をもう一度確認したりしました。
農協では、担当の方と話をして、一番気になっていたのがガソリンの確保です。消防車の燃料がほとんど残っていなかった。農協はガソリンスタンドを持っているので、「そちらは大丈夫か」と確認したら、「1日から3日までは休みだけど、非常用の指定スタンドなので、電気が来なくてもディーゼルの発電機を動かせば給油できる」と言われました。
それで「消防用に給油をお願いしたい。ただし一般の人には販売しないでほしい」とお願いしたんです。勝手な話ではありましたが、当時は自衛隊の到着なども想定しての判断です。農協の人から「消防団と一般の人をどう見分ければいいのか」と聞かれたので、若手の団員2~3人をガードマン代わりに配置してもらい、そこから消防団用の給油を始めました。
さらに、避難所への灯油供給も重要でした。内浦地区にある5か所の大きな避難所(松波中学校、白丸公民館、小木小学校、小木中学校、もう1か所)には、毎日必ず灯油を配達してもらいました。農協さんが本当に一生懸命動いてくれて、あのときは心の底からありがたいと思いましたね。
聞き手
震災前から地震で家が倒れた時にどこから入るとか、ジャッキで持ち上げるという発想も日頃からの備えが生きたのかなと思ったのですが、訓練は震災前から行っていたのですか。
金七さん
訓練は普段から消防団でやっています。ただ、いわゆる「実践的な救助訓練」というよりも、どちらかというと消防職員の方の活動をサポートするようなバックアップ訓練が中心です。でも、その中で実際の作業を見たり、一緒に動いたりしてきたので、ある程度の知識やイメージは自然と身についていました。だから、ジャッキで持ち上げるとか、倒壊した家に入るという発想は、訓練というよりも経験の積み重ねから出てきたものかもしれません。
それともう一つ大きかったのは、地域の繋がりですね。能登では昔から祭りが盛んで、「組長」といって、その年の世話役の家に集まって、ご飯を食べたりお酒を飲んだりする習慣があります。だから、近所の人たちがどの家に住んでいて、どの部屋で寝ているかまで、だいたいみんな知っていました。そういう関係があるからこそ、「あの家はこの辺に寝ているはず」「ここから入ったほうが早い」といった判断がすぐにできた。あれは本当に、地域のつながりがあったからこそできた救助だったと思います。
聞き手
消火活動をするときの水はどこからとったのですか。
金七さん
私たちが行った時は、もう周り全部が津波でやられていて、通れる道路は1本だけ。そこで、近くのため池を使いました。大きい消防車を中継にして、ため池の水を吸い上げ、それを可搬式の小型ポンプで各分団が分担して中継送水しながら、消火活動を行いました。水利が全く使えない状態だったので、ため池がなかったら本当に厳しかったと思います。あの時は、限られた環境の中でなんとかできる方法を探して動いていました。
聞き手
避難所へは行かずにご自宅にいられたということですか。
金七さん
避難所へは行っていません。私は消防の近くで、1か月と10日ほど車中で過ごしていました。消防団の仲間の中にも家を失った人がいて、その人たちは消防団の詰所に寝泊まりしていました。
聞き手
1月3日以降も救命活動が続いていたのですか。
金七さん
3日の主な活動は食料の調達でした。確か3日の夜か、4日の朝だったと思いますが、ようやく町から物資が届き始めた。実際には、みんな家に帰れば多少は食べ物があったと思うんですよ。おせちとか傷んでいなければ食べられるものもあったはずです。けれど、被害がひどかった地域では余震が続いていたので、家に戻るのを怖がる人が多かった。山の方の被害が少ない地域では、家に戻って食料を持ってくる人もいましたけど、松波の辺りは倒壊した家が多く、なかなかそうもいきませんでした。
避難所には800人以上の方がいました。車中泊の方も含めると1,000人を超えていたと思います。自分たち消防団だけが避難所で食べるわけにもいかない。「みんなで分けないといけない」と思って、食料不足を痛感しました。
それで、3日にお隣の珠洲市のシーサイドに行きました。津波の被害を受けた場所なのですが、そこのオーナーさんが「カップラーメンがいっぱいあるから持っていっていいよ」と言ってくれて、2階に600食分くらいあったんです。消防団全員でトラックやダンプに積んで運びました。その頃になって、ようやく携帯電話が少し繋がるようになり、役場などに連絡を取って、調整しながら配布しました。その夜には役場からも物資が届いて、少しずつみんなに食料が行き渡るようになったと思います。私自身はその頃、菓子パンと水だけで過ごしていました。
松波中学校は電気が通っていましたが、暖を取るために、みんなの家から昔ながらの石油ストーブを10台くらい集めてきました。灯油もどこにあるか分かる人がいたので、取りに行っていました。みんなで家の間取りを把握していたからできたことです。そういう意味では、地域の繋がりがあったから成り立ったことだと思います。
二日目以降は、人命救助が中心です。行方不明者の確認とか、所在が分からない人を探していました。別宅に避難している人も多くてね。だいたいの所在を把握して、消防団で確認し合って動いていました。
それ以降は、特に新たな行方不明の方はいなかったと思います。松波の中でも、家屋の倒壊が特に多い地区があって、避難所にはけが人もたくさんいて、本当に修羅場のような状況でした。AEDを使ったりもして、たまたまお医者さんが避難して来られていたので、応援してもらいました。救急車もすぐには呼べなかったので、珠洲病院に自分たちで車を出したりもしています。崖崩れの場所を避けながら、どの道を通れば行けるかを確認して、途中で患者さんを引き渡すようなこともしていました。
聞き手
人命救助の現場は、消防団ではない一般の人でも手伝えるのですか。
金七さん
聞かれることが多いですが、私たち消防団も、実際のところほとんどが素人のようなものです。でも、例えば大工さんとか電動ノコギリを使えるような人が周りにいれば、そういう場面ではすごく役に立ちます。DIYのスキルがある人も、通れない道を通れるようにとか、そういう形で十分に貢献できると思います。2日目以降になると、重機も少しずつ動き始めましたけど、うちらがやっていたのは、ほとんど手作業でしたね。大きい現場は建設会社さんが入ってくれたので、消防団では主に、自分たちの行ける範囲で、土嚢を使って地面の穴を埋めたり、家の下敷きになった人を救出したりしていました。
救助した人は、当然みんなけがをしているわけです。でも、当時は救急車が全然来ない。だから自分たちの車に乗せて運ぶしかなかった。たとえば、中学3年生くらいの男の子をダンプに乗せて宇出津病院まで連れて行ったりしました。秋吉方面の消防団の人たちに先導してもらって、こちらから4人、向こうから5、6人くらいで動いて、崖崩れが2か所あったのをまたいで患者さんを引き渡したんです。あの時は本当に「もうしょうがない」と思いながらやっていましたね。
避難所の中学校では、けがをしている人も多くて、足を骨折していても1週間、2週間そのまま我慢していた人もいます。重傷の人はヘリで運ばれていましたけど、自分の順番を待っている人もたくさんいました。うちの地区だけじゃなくて、輪島など他の地区も同じような状況でした。だから、富山ナンバーの救急車を見たときは本当にうれしかったです。高岡から来てくれた救急車に乗って行って、そのまま高岡の病院で入院した人もいました。そういうつながりはありがたかったですね。
避難生活中の困難
聞き手
1月1日以降で特に困ったことはありますか。
金七さん
困ったことだらけですけど、やっぱり「水」と「トイレ」です。水はまだ、ペットボトルがあったり、お店に少し残っていたりしたけど、トイレは本当にどうにもならなかった。1日の夜なんかは、避難所でトイレが詰まって使えなくなっていて。うちの娘も「トイレが我慢できない」と言って、車で家まで帰っていました。水も流れないし、詰まるし、トイレはどうにもならないです。
だから、10日くらい経ってから、トレーラートイレが避難所に来たときは、本当に助かりました。あれが来たときは、もう劇的に変わりましたね。「やっと普通にトイレができる」と、みんなほっとしていました。
やっぱり簡易トイレは大事だと思います。最初の4日間くらいは、簡易トイレとか携帯トイレでしのぎました。あれは、自分である程度の数を持っておかないとだめですね。そうじゃないと、流れないトイレを無理やり使うしかなくなって、もう大変なことになります。助けは必ず来ます。でもやっぱりトイレの手配っていうのは後回しになりがちで、そこが一番困りましたね。
聞き手
海水は使えなかったのですか。
金七さん
海水は下水に流せないので、難しいですね。山の水とか井戸水があればいいけど、うちの地区は塩分が出るところも多くて。山水を分け合ったという話も聞きましたけど、限られていましたね。
やっぱり今回の震災を通して思ったのは、「日頃の備えが大事」ということです。よく言われる3日分の水と食料に加えて、簡易トイレ、携帯トイレ。特にトイレは大事です。1週間分、1人あたり1日5回分として、40~50回分の凝固剤や袋を備蓄しておく。これは本当に必要だと思いました。車に積んでおいてもいい。
3日もすれば助けは来ると思います。だから3日間をどうしのぐかが大事。ご飯は1日食べなくてもなんとかなるけど、トイレだけはどうにもならないですからね。凝固剤は100円ショップでも売っているけど、尿専用のもあるし、便にも使えるタイプもある。そういう袋をトイレの便座に広げて使えば、水が流れなくても大丈夫です。使い終わったら固めて、持ち運べばいいだけ。普通の個室トイレとそんなに変わらないですよ。
消防団の詰所もトイレには本当に苦労していました。みんななんとか工夫して、我慢してね。男性はまだ「おしっこぐらいは」って外で済ませたりもできたけど、女性は本当に大変だったと思います。だから、トイレの備えは絶対に必要だと思いますね。
被災経験を振り返って
聞き手
日頃からの「サバイバル力」みたいなのも必要だと思いますか。
金七さん
そうですね。自分の命は自分で守る力というか。それも大事だと思います。
よく聞くのは、「キャンプの道具が全部役に立つ」という話です。そういう人は道具も知識もあるし、実際に助かっています。たとえば姫地区の避難所では、電気が通らなくて真っ暗だったけど、キャンプ用のランタンを持っている人がいて、足元が明るくなってすごく助かったそうです。電気が必要なのは難しいけど、のこぎりやドリル、ライトなんかも使い慣れている人は強いですね。やっぱり、そういう経験や道具の備えがあるだけで全然違うと思います。
10年前くらいに、小学生・中学生が日曜日に防災訓練をしていました。町の宇出津中学校の防災訓練で、学校全体でやって、小中学生も全員参加。そのときは、正直「そこまでやらんでも」と思っていた部分もあったけど、今思えば、あれは本当によかったと思います。子どもに防災を教えるっていうのは大事ですね。そのとき訓練を受けた子たちが、今もう20歳前後になっていて、実際の震災のときに避難所の運営を手伝ったり、ダンボールベッドを組み立てたりしていました。子どもが動くと、大人も動く。そういう意味でも、「子どもを巻き込む防災訓練」は絶対にやったほうがいいと思います。
うちの訓練では、小学生は「自分の身を守る」こと。外に出る、姿勢を低くする、そういう基本的なことです。中学生は、簡易ベッドを組み立てたり、消火器の使い方を学んだりしました。消防団も行って、放水体験をしたりしていました。学校によってはもっと細かい訓練もしていたと思います。それを年に1回は必ずやっていたので、今回も「どっちの方向に逃げればいいか」といった判断がついた子も多かったようです。小学校では「危険な道は通るな」「津波のときは海に行くな」といった教育もしていると思います。ああいう積み重ねが、今回確実に生きたのではないかな。
聞き手
最後になるのですが、将来に残しておきたい教訓はありますか。
金七さん
やっぱり、一番に伝えたいのは「3日間の備え」です。その3日間を、自助・共助という、自分たちの力だけで乗り切れるようにしておくこと。これは絶対に必要だと思います。
実は、今回の地震の1年前にも小さな地震があったのですが、そのとき「もう大きいのは来ないだろう」と思って、全然用意してなかった。それが本当に情けない。せめて水だけでも用意しておけばよかったなと。あの経験があったからこそ、今回の震災では「備え」の大切さを身にしみて感じました。防災バッグを用意している人もいましたが、いざとなると持って出られない人も多い。でも、たとえば玄関先に置いておけば、一度家に戻ったときに「あ、水があったな」「食料があるな」と思い出して使える。そういう「置いておくこと」「備えておくこと」自体が、防災への意識づけになるのです。備えがなかったら、自分の身を守ることすら難しくなる。だから、準備すること自体が大事だと思います。
消防団の立場からすると、正直、難しい判断もありました。大津波警報が出ている中で、自分たちも避難すべきだったのか、それでも救助に行くべきか、その答えはいまだに分かりません。命を守るために何が正解かなんて、簡単には言えないです。
でも、やっぱり思うのは、「自分の命を守る力」を持つこと。それは訓練でもいいし、キャンプのような経験でもいい。のこぎりやランタン、簡易ベッドの組み立て方、そういう“生きるための知識”があるだけで、誰かを助ける力にもなる。そうやって、一人ひとりができることを積み重ねていくのが、一番の防災だと思います。

伝える
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避難所・避難生活
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(輪島市)澤田建具店
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「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
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珠洲市上戸区長
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「避難所の運営にあたって」 -
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「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
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「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
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「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
前川悟さん
「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
堂下健一さん
「街の人だけの避難所」 -
地頭町区長
坂野満さん
「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
白丸公民館長(当時)
神田幸夫さん
「白丸公民館における避難所運営を経験して」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
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「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
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「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
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「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
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「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

