石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 企業・団体

支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して

珠洲市健康増進センター所長 三上豊子さん
体験内容
「珠洲市保健医療福祉調整本部」の本部長として、多くの外部支援団体と連携しながら、市内全世帯の状況把握や、生活支援を行った。
場所 珠洲市
聞き取り日 2024年11月27日
映像二次利用 不可

業務の内容

聞き手

 どのような業務を担当されていましたか。

三上さん

 珠洲市健康増進センターの所長として、通常は健康増進事業や母子保健事業など、住民の健康寿命の延伸に関する仕事をしています。2023年5月5日の地震の際に、内閣府随行の丸山嘉一先生や、ピースウィンズジャパンの稲葉基高先生と出会い、災害時に避難所支援や在宅高齢者等支援の重要性を伺いました。そこで、市長に報告し、珠洲市災害対策本部の下部組織として「珠洲生活サポート部会」を立ち上げ、住民の方の生活全般をサポートしました。今回の地震が起こった際も1月2日に、市長から「保健医療福祉調整本部」の立ち上げと、本部長を任されました。医療、福祉、行政の対口支援、専門ボランティアと様々な団体が集まった中で、情報連携や支援の必要な方に必要な支援を繋ぐ役割を行っていました。

地震当日の体験

聞き手

 地震当日の様子を教えてください。

三上さん

 発災当時は家にいました。前震があった時点で出勤の準備を始め、その後に本震がきました。海を見ると水が引いていて「津波がくる」と思い、とにかく増進センターにある母子の記録などを移動させなければと、本震が落ちついてから5分ぐらいで家を出ました。ただ、マンホールは飛び出て、橋に段差ができ、電柱は傾き、健康増進センターまで普段は5分くらいの道のりに20分くらいかかりました。そんな道路状況だったので、職員は参集できず、私ひとりで市役所に向かうことにしました。

健康増進センターと市役所の位置関係(2024年3月14日撮影)

 あの日覚えているのは、真っ暗な中、星がとてもきれいだったことです。誰にも会わない、車も行き来がなく、すごく不安でした。市役所の3階に指示を仰ぐために上がったところ、窓から津波が市役所の信号機のところまで来ているのを見て、これは現実だろうかと思いながら、避難されてくる方の対応にあたりました。

暗闇と倒壊した住宅の瓦礫(2024年5月15日撮影)
聞き手

 市役所ではどのように対応されたのですか。

三上さん

 住民や市外にいるご家族、メディアの方からの電話対応をしました。また、空腹を訴える方や暖を求める方、赤ちゃんの泣き声、廊下に座り込んでいる方など沢山の方がいらっしゃったので、具合の悪い方がいないかお声掛けしました。そんな中、真っ暗な事務所の中に人の気配がしたので、職員と思い声をかけたら、椅子にかかっているひざ掛けを持っていくところでした。みんながパニックになっていて、生きる死ぬを改めて感じました。とにかく、落ち着いてくださいとお声掛けするのが精一杯でした。

夜の珠洲市役所(2024年2月20日撮影)

「保健医療福祉調整本部」の立ち上げ

聞き手

 支援団体が到着したのはいつ頃ですか。

三上さん

 1月2日の午後です。
 市長から「保健医療福祉調整本部を立ち上げて住民の対応にあたるように」という指示でしたので、1月2日の20時にここで第1回の会議を開きました。その後も、様々な団体が支援に集まってきました。多いときは200人以上がこの和室に集まって、朝8時半と、夕方5時にミーティングをしていました。1月末までは朝7時の市役所全体会議で情報整理、朝8時半に情報共有、活動、夕方5時の報告・課題整理、夜7時に市役所全体会議と、あっという間に時間が過ぎていきました。

熱気に包まれた保健医療福祉調整本部(2024年1月撮影)

 ただ、最初の3週間ぐらいは、様々な職種が集まり、知恵を出し合いながら議論を交わしました。しかし時間はどんどん過ぎ、必要な物資も届かず感覚的には真っ暗なトンネルの中にいるような感じでした。

 7日から広域避難の調整が始まりました。通信環境が整っていない中で調整するのはすごく難しかったです。要件を整理して、住民の方にお伝えしても要件が変わること、連絡をしたくても直接伝えに行くしかない場合など、対応は非常に困難でした。

聞き手

 職員の方が現地に行かれて情報を伝えていたのですか。

三上さん

 たくさんの支援団体の方に助けていただきました。昨年5月の地震で珠洲の地理にも詳しい団体や専門ボランティアの団体など、それぞれのチームの得意なところを使って困りごとを解決してくださいました。

広域避難の様子(2024年1月撮影)

「全戸ローラー」の実施と見えてきた課題

聞き手

 全世帯の状況を確認されたとうかがったのですが。

三上さん

 はい。2023年5月5日の地震の際には、被害の大きかった地区から65歳以上の独居の世帯、次に他地区の75歳以上の高齢者独居の世帯、次に障害のある方というふうに段階を踏んで、住民基本台帳の情報で回りました。実態とは違っているケースがあり、支援対象者が網の目から落ちることがありました。そこで、次に災害が起きたときには、全戸ローラーで全世帯を確認する必要があると思っていました。

 今回は過酷な道路状況でしたが、「全戸ローラーしたい」と話したところ、被災経験のある保健師チームを中心に「私たち行きます」って言ってくださって、1月16日から2週間で9割以上、外浦も含めて全地区を回って地図に一件ずつ状況を示していただきました。その後、県の被災高齢者等把握事業に未確認世帯の巡回を依頼しました。全戸ローラーがなければ、そういった次のステップに進むことはできなかったと思います。

聞き手

 昨年5月5日の地震で得た経験や、つながりが生かされたということでしょうか。

三上さん

 そうです。
 5月5日のつながりがなければ、途方に暮れていたと思います。
 高齢者が多いことや、我慢する方が多いこともわかっていただいているので避難所だけでなく、車中泊も、仮設住宅、在宅も住民がいるところが全て避難者と捉えて、全戸ローラーも7順8順ぐらいしています。みんなで助け合って、今この11カ月があるというふうに思っています。

聞き手

 全戸ローラーの中で出てきた事例、住民の困りごとなど教えてください。

三上さん

 現在、要フォローとなっている方は約2,000名です。

 避難所では周りがなんでもしてくれるので活動量が減って生活不活発病になっている方、仮設住宅では避難所から移った時点では喜ばれることが多いですが、時間が経つと人と交わることがなくなったり、在宅では被災後、修繕が進まず、お風呂に一度も入っていない方など様々です。共通しているのは自分から声をあげない方が多いので、声をかけるだけでなく、もう一歩踏み込んで生活環境を見る目、サインを聞き逃さないことを基本に個別訪問しています。
 今、いちばんの困りごとはもうすぐ本格的な冬が来るのに修繕が進まないという声です。在宅の方が少しでも暖かく冬を過ごせるようになってほしいです。

聞き手

 在宅でもきめ細かい支援が必要ということでしょうか。

三上さん

 どうしても避難所に焦点が行きがちだと思うのですが、避難所に行けない方がたくさんいる、認知症の家族がいる、集団生活になじめない、小さな子供がいる、ペットがいるなど、避難所に行けない人がいるということを私たちはしっかりと理解しておく必要があります。避難所で要フォローとして引っかかる人が10人に1割だとすると、仮設住宅に入ると3割、在宅は5割くらいです。
 在宅は避難所に行きたくても行けない問題を抱えている人、一部損壊や準半壊で仮設住宅に入れない、修繕することもできずに住んでいる方などきめ細やかな伴走が必要です。押し付けではない、その方の必要とする支援を続けていかなければならないと考えています。

今後に向けて

聞き手

 今回の経験を踏まえて、整えておいた方がよい制度等があれば教えてください。

三上さん

 沢山の外部支援団体やNPO等の団体が被災地に入って来られました。ただ、どの団体が何を得意とするのかがわからず困りました。平時から行政、社協と多様な被災者支援のNPO等の団体が「顔の見える関係」をつくり、発災時にはスムーズに官民が連携・協働して被災者支援にあたることが必要だと考えます。
 また、いちばん困ったのは通信です。情報の分断がある中で、時間をかけずに判断することが求められました。情報の収集や伝達などが災害時でもスムーズにできる環境を整える必要があると思います。

聞き手

 今後について教えてください。

三上さん

 外部支援団体は、ずっといらっしゃるわけではないので、ささえ愛センターを核に、日々の見守り相談支援を行うことと同時に、気づく目、課題解決のつなぎ先などスキルアップに努めていきたいと思います。また、防災・減災は平時の地域力だと改めて実感しました。被災者として支援者として地域コミュニティの再建に寄り添った支援を続けていきたいと思います。

珠洲を支えてくださっている外部支援者と(2024年3月10日撮影)

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