石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 学校

避難所の運営を手伝って

珠洲市立緑丘中学校3年生 出村莉瑚さん
体験内容
避難所の運営を手伝った。避難所から学校に通った。
場所 珠洲市
聞き取り日 2024年11月1日
映像二次利用 不可

避難の状況

聞き手

 どのように避難したのですか。

出村さん

 今年はたまたま親戚が誰も来ていなくて、家族4人、お父さんと、お母さんと、私と、おばあちゃんで、車で逃げようと思ったのですけど、道が全部、両方とも電信柱が倒れて通れなくて。だから近所の人と軽トラの後ろに乗って行こうとしたのですけど駄目で。近所の人たち全員で、正院小学校の山に避難しました。津波があるから、とりあえず殿山っていう正院小の裏山に逃げて、津波警報は解除されていなかったけど、市役所の人みたいな方が、小学校入ろうって言って、暗くなってからみんなで正院小学校に入りました。

多くの建物が倒壊した珠洲市正院地区(2024年5月14日撮影)
聞き手

 どのような人が何人くらい避難されていたのですか。

出村さん

めっちゃ人がいて。その時からずっといたのか分からないのですけど、お皿を数えた時に400個は一番多い時で多分あって、もしかしたら、もうちょっと多かったのかもしれないですけど、めっちゃ人がいました。小学生以下の子も最初はいました。2次避難に行く前は、赤ちゃんや小さい子をよく見たのですけど、2次避難が始まってからは小学生ぐらいしか見なくなりました。お年寄りばかりでした。90歳より上の方は絶対にいたと思います。2次避難でそういう方は減ったのですけど、やっぱりお年寄りは多いなっていう感じがしました。体が不自由な方もいました。避難所の1階には体が不自由な方の部屋があって、その人のご家族が代わりにご飯をもらいに来たりしていました。多分ちゃんと分けた訳じゃなくて、自然にそうなっていたのかなって感じがするのですけど。1階の玄関に近いところは、寝たきりの人で埋まっていたみたいな感じです。

聞き手

 避難所で暮していて困ったことは何ですか。

出村さん

 電気が来なくて、2、3日は暗くて、懐中電灯があると本当に便利だと思いました。電気がなかったからテレビが全然見られなくて、ネットも充電がなくなるから使えなくて、だから本当に情報が入って来なかったです。電気が来た時にテレビがついて、4日ぐらいしたらテレビが見られるようになったかなって。羽田空港の火事も、輪島の火事も知らなかったし、テレビを見て、大変なことになっているというのを知った感じです。
 あと水。最初の方は水がなくて、みんなちょっとずつしか当たらなかったから、やっぱり水とか多めに入れといた方がいいなって思います。水が出なくて、トイレがめっちゃ臭いし、仮設トイレが来るのも正院小学校は結構遅くて、だから携帯トイレみたいな固まるやつとかあるといいなって。

インタビューに応じる出村さん(2024年11月1日撮影)

避難所での手伝い

聞き手

 避難所の運営をお手伝いされていたそうですが、どのようなことをされていたのですか。

出村さん

 やっぱり水が出ないので、皿、お汁茶碗とかを1回拭いて、水がもったいないから、煮沸したりして、その皿もめっちゃ多かったので、それが大変でした。煮沸は大人がやってくれて、お皿を煮沸する前に拭いたりする作業とか、野菜を切ったりということを子供もやっていました。することもないし、みんなやっていたし、友達もやっていたから、何かみんなでやろうかなって感じでやりました。正院小学校出身の中学生とか小学生もみんな手伝っていました。

聞き手

 避難所の役割分担はどのようになっていましたか。

出村さん

 部屋の掃除は、部屋の人みんななのですけど、炊き出しはやりたい人がやるというか、手伝える人が手伝うみたいな感じで。炊き出しは、中学生もやっていました。小学生もいろいろな人がやっていました。最初は手伝ってくださいみたいなのはあったのですけど、それで人が足りていないからやろうかみたいな、なんかわからんけど自然となったみたいな。それで、炊き出しする人のメンバーが決まっていって、それで手伝うみたいな感じでした。

聞き手

 避難所のタイムスケジュールを教えていただけますか。

出村さん

 朝6時ぐらいに電気がついて、その後、炊き出しがあって、部屋ごとに掃除する曜日が決まっていて、トイレ掃除がある人は朝早い時間帯に掃除していたりして、大体7時くらいから、炊き出しの手伝いが始まったりして、炊き出しがあって、その後に回収して、皿を拭いたり、煮沸したりっていう作業になって、10時ぐらいに全部終わって。家に片付けに行ったりする人が多かったので、お昼の炊き出しはなくて。みんな夜になったら帰ってくるので、16時半ぐらいから炊き出しの準備を始めて、18時ぐらいにご飯ができて、それで20時ぐらいから回収を始めて、皿を拭いたり、煮沸したりっていうのがあって。20時半ぐらいに多分全部終わって、それで21時消灯でした。

避難生活と学校生活

聞き手

 学校はいつごろから再開されたのですか。

出村さん

 10何日ぐらいに、登校日が2回ぐらいあって、その後、1月の後半20何日ぐらいから、医王山に行った子と、珠洲に残った子で、授業が始まったと思います。私は、1月いっぱいで家が片付いたから、1週間ぐらいは避難所から通ったし、他に、ずっと3月ぐらいまで避難所にいて、ずっと避難所から緑丘中学校に通っている子もいたし、普通に新学期が始まってからも、避難所から通っている子がいました。最初は1階から3階まで全部の教室を避難所に使っていたのですけど、2次避難で結構人が減って、基本3階は全部開けて小学校に使っていました。

出村さんが通う珠洲市立緑丘中学校(2024年2月20日撮影)
聞き手

 避難所でほかの家族と同じ空間で生活してみてどのような感想を持ちましたか。

出村さん

 私の友達が一緒に正院小学校に避難していて。隣の教室だったので、それは案外楽しくて、私は兄弟がいないので。兄弟ができたみたいな感じで、友達と夜とかトランプできたりして、それは楽しくて。でも、正院だけども知らない人っていっぱいおるから、仲良くやれているところもあるし、あんまり良くないところもあったらしいです。小学校の時の先生がいて、中学生と小学生を集めて、午前中の終わりぐらい、11時とかからみんなで勉強したり、13時とかからちょっと勉強したりはみんなでしていました。冬休みの宿題が終わっていなかったので、冬休みの宿題を頑張って終わらせていました。

聞き手

 避難所で生活する中でいろいろな年代の方と関わる機会があったと思いますが、印象に残っている会話はありますか。

出村さん

 今まで小学校のときにお年寄りと関わる機会はあったのですけど、公民館に来ないお年寄りとかもいるから、違う年代の方との接し方をそこで学べたし、ありがとうとか言ってくれたり、優しいおじいちゃんおばあちゃんとかがいるので、それはすごい、なんかやっていて、お手伝いとかしてよかったって思います。

聞き手

 避難所にはいつ頃までいたのですか。

出村さん

 1月の終わりぐらいまで。ほぼ1月いっぱいぐらいまでいました。

地震の前後で変わったこと

聞き手

 地震が起きる前と起きた後で一番変わったことは。

出村さん

 めっちゃ変わりすぎて、前も5月に地震があって、たまに崩れている建物とかあったのですけど、やっぱり1月の地震は、それと比にならないくらい、車で移動しても、どこを見ても瓦礫があって、やっぱり全然前と違うなって思うし。金沢に行った人が、金沢は何ともなくて、ここだけ違う世界みたいと言っていて、やっぱりそうだなって思います。

珠洲市正院町では2023年5月の奥能登地震でも被害が発生した(2023年5月6日撮影)
聞き手

 準備しておいた方が良いものは。

出村さん

 非常用持出袋は大事だなと。準備をしていた方が良いし、家が崩れたらどうしようもないですが、家が崩れていなくて、棚が崩れるだけなら、固定するやつで止められるので、本当に準備しておけば良いと思います。
私の父が消防士で、岐阜の中学校の人が来た時に、「備えておけば良いものはありますか」と言われて、お父さんとか、消防士とか、解体の人が言っているのが、レシプロソーという小さい電動のこぎりがあって、チェーンソーでも良いのですけど、崩れた家がめっちゃあって、閉じ込められている人もいっぱいいたのですけど、そういう時って、道がふさがっていて、大きい消防の車が通れなくて、そういう小さい電動のこぎりが、助けるのに大事らしくて、それがあると一気に生存率が上がるらしいので、家に準備していなくても、チェーンソーがある家を知っておくとか、消防が来るまでにも時間がかかるので、そういうものを準備しておいた方が良いって言っていました。これを岐阜の人に言ったら一緒の中学校の人にめっちゃ笑われて、でも私は大事だと思うので。

はにかみながらも大切な教訓を伝えてくれた出村さん(2024年11月1日撮影)