石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 学校

ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ

飯田高校2年生 畠田煌心さん
体験内容
自宅が全壊し、ビニールハウルでの避難生活を体験。生徒会長として学校生活の充実に取り組んだ
場所 珠洲市
聞き取り日 令和6年12月12日
映像二次利用 不可

避難行動と家族の被災

聞き手

 1月1日の地震発生時、どこにいて、どのように避難したのか教えてください。

畠田さん

 1月1日は、午後3時ぐらいまでは母方の家、今住んでいる自宅(珠洲市内)で家族でゆっくりしていました。午後3時ぐらいから父方の実家(同市内)に行き、親戚みんなとご飯を食べました。ご飯を食べている時に、震度5の地震がきて「でかかったね。」と話をしていたら、その後、震度7のこの世のものとは思えないくらい大きな地震があり結構焦りました。

聞き手

 地震が発生して、親戚の人と一緒に避難したんですか。

畠田さん

 親戚の人とは絶対生きて会おうねという話をして、それぞれ分かれて避難しました。自分達の家族は、じいちゃんやばあちゃん、お母さんが自宅に残っていたので心配になり、車で1度自宅に戻ろうとしましたが、家とか木が倒れていて、ガラスも道路に飛び散ったりしていて「やっぱり行けんな。」ということになり、お母さんがいる方には戻れませんでした。その近くに高台があって、最初、そこにみんなで避難しようと言っていたのですが、やっぱりお母さんが心配になり、俺を除いた4人(父、弟、妹1人、妹1人)が、お母さんの方の自宅まで歩いて行くと言っていました。母方の家は全壊し、お父さんは、母と妹1人が埋まっていると聞き戻りたくなって、俺が警察や消防とかと話をしている間にその4人は歩いて自宅に向かいました。その時は、津波の情報があったので高台の上のぼっておいてと言われたので、私1人だけで高台に行きました。その後、家族と合流したのは7時過ぎだった気がします。

聞き手

 その日は高台で過ごしたんですか。

畠田さん

 (お父さんたちがお母さんを助けに)行ったけど、帰ってこなくて、7時ぐらいになってようやく津波警報が解除されました。そこで、高台からもう一つ奥の避難所に行くことになったのですが、木が倒れていて通れませんでした。その木を切ってくれた人がいて、ようやくその避難所に車で行けることになり、自分は知らない人たちと一緒に避難しました。

聞き手

 その避難所は、どこですか。

畠田さん

 旧本小学校です。

聞き手

 旧本小学校が避難所になっていることは分かっていたのですか。

畠田さん

 そうです。避難するかどうかは別として、避難所になっている事は、多分みんな知っています。

聞き手

 避難した時に持っていけば良かったものや、忘れてしまったものなどありましたか。

畠田さん

 地震が起きた時に、父方の家にいて、その間ゲームとかしていたのでスマホの充電が極限まで減ってしまっており、それはやらかしたなと思いました。モバイル充電器とかもありませんでした。最後に、おばあちゃんがランプみたいなのを持たせてくれて、それは結構助かりました。高台に2時間位いたんですけれど、高台から下りる時、暗くて足元とかが見えなかったりしたので、自分はランタンを持ち、そのぐらいしかできませんでしたが、道とかを照らして避難者を誘導しました

聞き手

 地震発生時、電波がなく、情報が届かないとなった中、情報はどのような形で届きましたか。

畠田さん

 携帯の電波が全く繋がらなくて、携帯を開いても意味がないみたいな感じで、最初はラジオを聞いていましたその後、カーナビのテレビがちょうどついて、輪島の火災だったりとかの情報入ってきたりして、ワーッとなりましたね。それが2日か3日目だったと思います。

聞き手

 どんな情報の優先度が高かったですか。

畠田さん

 珠洲のこの道路はこんな被害とか行方不明者なども心配でしたが、どんなところで、どんな被害が起きているのかを見たかったし、最初はなかったかもしれませんけれど、どんなサービスがあるのか、炊き出しとか物資配布とかについて知りたかったです。

聞き手

 こうした情報は、どのようにして入ってきましたか。

畠田さん

 周りの人の口コミから情報を貰っていました。その後、市のLINEなどから入ってきました。携帯がつながらないのは、とても不安だし、友達と連絡取ろうと思っても、取れなかったし、友達の安否確認ができなかったのは困りましたね。

聞き手

 令和5年5月5日にも大きな地震がありましたが、その後、次の地震に備えて、備蓄を増やすなどの対策をとっていましたか。

畠田さん

 していませんでした。自宅の柱に大きな隙間ができていて、次、でかい地震がきたら家が崩れるなみたいな話が家族間で出ていましたが、何もしませんでした。

聞き手

 そういう認識がある中、地震がきたらすぐに外に出ようという気にはなりましたか。

畠田さん

 お母さんたちの話を聞いたら、震度5の時は意外と大丈夫やったみたいで、外に出なくても大丈夫だと思ったらしいのですが、震度7がきた時はやばいと思ったようです。避難する間もなく家が倒れてきたと言っていました。家が倒れてきた時は、視界が歪んだと言っていました。1回目の地震の時に、外に出て何分か待機していれば、2回目の地震で埋まらなかったと思います

地震により倒壊した自宅(畠田さん提供)
聞き手

 お母さんたちは、消防の人たちに救出されたんですか。

畠田さん

 自分たちで救出したらしいです。チェンソーとかもあったんですが埋まってしまっていて、同じ地区の人がチェンソーとか持ってきてくれて、家を切ったりして救出しました

聞き手

 近所の人とのつながりがあったおかげで助かったということですか。

畠田さん

 そうです。

聞き手

 畠田さんだけ、旧本小学校にいて、後々家族が合流したかたちですか。

畠田さん

 旧本小学校で合流したのではなく、私が潰れた家に戻りました。家・建物は全て倒壊し入れず、敷地内にあるビニールハウスにみんながいました。

聞き手

 家族と合流して、その日は、その家で過ごしたんですか。

畠田さん

 そうです。合流してビニールハウルの中で寝ました。

ビニールハウスでの避難生活

聞き手

 避難所には、翌日避難したかたちですか。

畠田さん

 うちは農家なので、農作物用のビニールハウスがあります。そこに家族9人と近所の人2名を合わせた11人で生活することになりました。結構最近まで、ずっとそこで生活していました。

避難生活を過ごしたビニールハウス(畠田さん提供)
聞き手

 地震があった直後は、自宅にあった食料とかを食べながら生活したんですか。

畠田さん

 そうです。

聞き手

 ビニールハウスで生活を始めて一番苦労したことはなんですか。

畠田さん

 やはり寒さです。雪も降っていました。日中は日が出てきたら、ビニールハウスは暖かいのですが、夜とか日がなくなってきたら、もう本当に寒くておられんかったし、電気もなかったし、水道も全部駄目だったんで、本当にサバイバルをしているような感じで生活していました

聞き手

 食料とかは、どうでしたか。

畠田さん

 潰れた自宅の冷蔵庫から、中身を引っ張り出そうと思っていたんですけれど、やっぱりできなくて、そこら辺にあった食材とかでなんとか料理しました。1週間後ぐらいから、少しずつパンなどの支援物資が届くようになりましたので、それを食べました。

聞き手

 支援物資は、旧本小学校に取りに行っていましたか。(支援物資が)届きだしてから、食料は困らなくなりましたか。

畠田さん

 地区の集会所があって、そこに届いていて、そこから持ってきてくれる人がいました。最初の方は、パンが人数分だけとか、やっぱり少なかったので、ちょっと心配になりました

聞き手

 授業が始まってからはどんな感じでしたか。

畠田さん

 1月の終わり頃、学校に来てもいいよみたいな感じになったのですが、まだ避難者が学校にいました。だから、授業の再開とかはなかったのですが、最初はみんなで学校の片付けをしたり、あとは安全確認みたいな感じでした。みんな学校に来て、先生とかに顔を見せて、掃除とかして帰るみたいなかたちでした。基本は、午前中で終わりました。2月に入ったぐらいからオンラインで授業に参加できるようになり、遠くで避難している子とか、自宅にいる子とかも一緒に授業ができるようになりました。

聞き手

 1月下旬、学校に避難者の方がたくさんおられたと思いますが、その方々と交流したり、一緒に何かしたりしましたか。

畠田さん

 自分はやっていませんが、友達とかは、避難者の支援ニーズにあわせて、避難者の子供を預かる、子供教室みたいなことをやっていて凄いなと思いました。自分は、ずっと学校にはいられないので、参加したいという気持ちはありましたができませんでした。

聞き手

 ビニールハウスで生活する中で、ガスやお風呂はどうしていましたか。

畠田さん

 ガスは、カセットコンロを使って料理をしていたので、小さいし数も少ないから、親はめっちゃ不便と言っていました。お風呂は、自衛隊の人たちが仮設風呂みたいな形で入浴支援をやっていてくれたので、そこに毎日入りに行きました

聞き手

 どこの仮設風呂に入りに行きましたか。

畠田さん

 最初は、蛸島小学校だったんですけれど、次からは「元気の湯」になり、そこに行っていました。8月いっぱいで入浴支援が終わったので、そこからビーチホテルが入浴支援をしてくれ、今も毎日入りに行っています。

学校再開、学校生活への影響

聞き手

 2月に入りオンライン授業が始まったとお聞きしましたが、実際に出席している人もいましたか。

畠田さん

 学校に来て、(授業を)受けている人もいました。

聞き手

 どのくらいの割合ですか。

畠田さん

 最初の方は、遠いところに避難している人もいたのであまり来ていなかったのですが、3月とか、2月の後半ぐらいになったら、結構来ていました。

聞き手

 授業再開後、校内に避難者用のエリアはありましたか。

畠田さん

 俺らが学校に来るようになった時には、(避難者の方は)もう少なくなっていて、多分違うところに移動して貰ったので授業ができるようになったのだと思います。

聞き手

 畠田さんは、生徒会にも関わっているということで、生徒会として、取り組んだことや復興のために行ったことなどありましたか。

畠田さん

 生徒会としては、地震で何もかもが不自由になった生活の中で、今まで以上に学校生活を楽しむためにはどうすれば良いかを考え、生徒会活動を行いました。生徒の中には、海浜あみだ湯のボランティアとして入浴支援を手伝っていた人もいて、できることはたくさんあったと思います。

聞き手

 苦労したことや印象に残っていることはありますか。

畠田さん

 それこそ、テレビ局の人が来て、ボランティアしているところを取材して欲しいとお願いされたので、海浜あみだ湯でボランティアしている人を取材した際、大変だと言っていましたが、町の人と関わることができたり、笑顔になってくれて嬉しかったといったコメントがあり、やりがいも感じていて、とても素敵だと思いました

聞き手

 今は、普通に授業を受けれていますか。

畠田さん

 体育館が2つあったのですが、1つの体育館が、地震で壊れて完全に使えなくなり、グラウンドとかもひび割れして使える面積が減ったりして、部活とか体育の授業において不便さみたいなのを結構感じました

飯田高校前の舗装に亀裂(2024年1月3日撮影)
聞き手

 部活動は何をされていますか。

畠田さん

 自分はサッカー部で、下のフットサルコートみたいなところで練習をしていたんですが、そこも地震の影響で使えなくなりました。グラウンドで練習していたんですが、野球部とかも使うから、どちらが使うかみたいな感じで、少し揉め気味になったこともありました。

聞き手

 今は、サッカー部はオフの期間ですか。

畠田さん

 サッカー部はフットサルをしています。でもフットサルも体育館を使うので、体育館が1つしか使えないので、室内の部活には本当に申し訳ないと思っています。

聞き手

 部活動は、たくさんありますか。

畠田さん

 そんなにいっぱいという程ではありませんが、室内もあれば、外もあるみたいな感じです。やはり体育館を使う部活にしたら、外で練習する部活が、室内を使っているのはあまり良くないかなと思っています。さすがに申し訳なく感じています。

聞き手

 選手権とかは、どうでしたか。

畠田さん

 選手権は負けてしまったんですけれど、地震があってから思うような練習ができない中、自分たちなりに考えて頑張って練習してきたつもりです。試合では点が取れたし、内容的には良いゲームでした。

聞き手

 部活や体育の授業以外で、何か不便なことはありましたか。

畠田さん

 地震で悪いことや不便になったことは、たくさんあったと思いますが、自分の部屋がなくなり、家族みんなで過ごすようになったことで、家族と過ごす時間、コミュニケーションをとったり、一緒にご飯を食べる時間が増えました。そこは地震のおかげだと思います

祭りと復興への想い

聞き手

 次の地震に向けて備えておきたいものはありますか。

畠田さん

 小型の発電機、蓄電池、バッテリーみたいなものがあれば便利だと思います。携帯とかも充電できなくて、情報とかも手に入らなかったし、ラジオを聞いていましたが、見て状況を知りたいというのもあり、スマホの充電ができれば良いと思いました。スマホはライトも使えますし、電気を蓄えるものがあれば良いと思いました。

聞き手

 これから珠洲がどんな町になったら良いですか。どんな復興をしたら良いと思いますか。

畠田さん

 人がいなくなって、今も活性化している町ではないかもしれませんけど、珠洲には、珠洲なりの文化というか、大事なものがあるから、それを今の自分たちの世代、若い世代、これからの世代が、石川だけじゃなくて全国とかに発信して、珠洲に来て欲しいとまで言いませんが、珠洲を知って、記憶に残して欲しいという思いがあります。子供とかも少ないけど、祭りだけは、祭りを残していきたいという気持ちはあります。祭りはやっぱり好きですね。祭りも、今年できないところもあって、本当にそれを楽しみに1年過ごしてきている人もいると思うので、やっぱそこは大きかったかなと思います。

聞き手

 学校の中のみんなも祭りは好きですか。

畠田さん

 好きですね。今年が初めてだと思いますが、祭りができなくて、復興祈願もあると思いますが、学校でキリコを作り、文化祭とかで担いだりしました

聞き手

 今年は、祭りはなかったんですか。

畠田さん

 開催されたところもあったと思いますが、地震とかでキリコが潰れてしまったところがありました。

聞き手

 畠田さんは今年祭りに参加しましたか。

畠田さん

 今年、自分の地区はできませんでした。友達の地区とかの祭りを見に行ったりしました。

聞き手

 それを見て、どういった感想を持たれましたか。

畠田さん

 やっぱり祭りって何か不思議な感じで、やっぱり疲れるんですけれど、元気をもらえるし、また頑張ろうという気持ちにさせてくれます

聞き手

 最後に一言お願いします。

畠田さん

 震度7の地震は、簡単に体験できるものではないからこそ、体験したということはすごく大きいので、自分たちの体験を違う人だったり、自分の子どもだったりに伝えていくことで、今後の災害の被害とかも抑えられるかもしれないし、珠洲とか石川のことを知ってもらえることにつながるかもしれません。みんなに話をしていくことで、少しでも珠洲の復興につながればと思っています

「祭りを残したい」「自分たちの体験を伝えていきたい」と力強く語る畠田さん
(2024年12月12日)

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