石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 企業・団体

殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在

珠洲消防署 消防士・中野透さん、源剛一さん
体験内容
消防指令システムに不具合が生じ、出動指令が受信できない中対応した救助活動や緊急援助隊と連携した災害対応を経験
場所 珠洲市
聞き取り日 令和6年10月30日
映像二次利用 不可

初動対応

聞き手

 地震発生直後は、どこで何をしていましたか。

中野さん

 私は、朝8時半から翌日8時半までの24時間の当直勤務で、ここに職員が9人勤務していました。

源さん

 私は非番日で、自宅で家族と過ごしていました。

聞き手

 地震発生直後の対応について、教えてください。

中野さん

 午後4時6分、1回目の震度5強の地震があった時は、事務所で事務をしていました。震度4以上になると職員が参集し、被害状況を確認するため、市内を巡回することになっています。震度5強の地震後、私は車庫から車を出し、参集してきた職員を市内巡回にあたらせるための準備をしていました。

源さん

 自宅にいた時に震度5強の地震にあいました。自宅はこの消防署の近くにあります。署に駆けつける準備をしている時に、次の震度6強の地震がありました。結構長い間、横揺れが続き、揺れが収まってから家族の安否確認をしました。経験したことのない規模の地震だったので、津波を考慮し、家族の避難も考え、家族全員、5人一緒に車で消防署に駆けつけました。走行中に周辺の被害状況を確認していましたが、消防署周辺に関しては、道路の隆起がありましたが、比較的被害が少なく、倒壊家屋もなかったので、さほど被害は大きくないかもしれないと思いながら、署に駆けつけました。

インタビューに答える中野さん(右)、源さん(左)
聞き手

 この辺りの住民は、どちらに避難されましたか。

源さん

 上戸小学校や上戸公民館、あとは津波警報が鳴っていたので、山の方に避難した人もいました。消防署自体は、避難所になっていませんが、指定緊急避難場所になっていました。

聞き手

 初動について教えてください。マニュアルに沿って対応できました。

中野さん

 多数の被害が予想されたため、勤務員及び参集してきた職員とともに出動準備を行っていましたが、予想をはるかに超えた出動要請に対応しきれませんでした。参集する職員も道路が寸断されており、すぐに署に駆けつけることができた職員は少なかったです。

源さん

 私が来た時は、2、3人ぐらいしか集まっていませんでした。

聞き手

 通常、何人集まることになっていますか。

中野さん

 全員来ることができれば、約20人は集まる予定ですが、そうなりませんでした。

聞き手

 そうした状況下で、どのように動かれましたか。

中野さん

 私は、震度5強の後、車を出して巡回準備を終えてから、通信室に参集した職員の、巡回場所などの確認をしていました。そうした中、午後4時10分に震度6強の地震が発生し、とにかく初めての経験で、昨年の震度6強に比べて、揺れている時間が長く、揺れも大きく感じました。津波が来るだろうし、被害も大きなものになると考え、すぐに出動できるよう準備をさせました。地震発生から間もなく大津波警報が発表されてから、倒壊建物からの救助要請が最初にあり、救急車と救助車両を現場に向かわせました。その後も救急、救助要請の電話が鳴りやまなかったです。

救助現場に出動した救急車(2024年10月30日撮影)
聞き手

 電話がたくさんかかってきて、その対応は出来ましたか。

中野さん

 出来ませんでした。人員が不足し対応しきれませんでした。また、珠洲消防署は指定緊急避難場所なっていますので、近隣住民が多く避難してきました。皆さん、署内の空きスペースに一夜を過ごされましたが、避難された方にまで手が回るような状況ではありませんでした。

発災から数日間の対応

聞き手

 地震発災直後から数日間は、どのようなことをされましたか。

中野さん

 本来、消防本部の情報指令課に「119」が入り、同課経由で指令が出るのですが、発災直後から指令システムが故障し、指令が出せない状況のため、一般電話での対応となり、非常に困難な状況でした。出動要請があり現場に向かうが、道路が寸断され、現場に到着できない場所が多くありました。そのため行ける場所を優先して出動しました。

聞き手

 行けるところ、行けないところの情報は把握されていましたか。

中野さん

 把握していません。

聞き手

 情報がない中、どのように対応されていましたか。

中野さん

 道路状況は全く分かりませんでした。出動場所を聞き、出動するのですが、結局それ以上行けず、とにかく1件ずつ、到着できる場所を順々に対応していくしかありませんでした。

聞き手

 一番大変だったことは何ですか。

中野さん

 倒壊建物の救助現場です。夜通し5、6件行きましたが、人海戦術で時間をかけて、ゆっくりゆっくり掘り進めていくため時間がかかりました。中から声が聞こえるといった情報が入り、その現場に向かうのですが、救助者が倒壊建物のどこにいるかが中々分かりません。(救助者の)位置を特定することに苦労しました。

聞き手

 火災はありましたか。

中野さん

 宝立町春日野で7棟燃えています。津波があった場所です。消火にあたった職員は3人で、午後6時半から翌日9時半までずっと消火活動をしていたと思います。残念ながら、交代する職員がおらず、そこでずっと頑張ってもらいました。

聞き手

 水はありましたか。

中野さん

 水は、防火水槽と田んぼの用水を堰き止め、消火水としました。

消化活動に使用する消防用ホース(2024年10月30日撮影)
聞き手

 その後、消防署はどういった活動をされましたか。

緊急援助隊からの支援、関係機関との連携

中野さん

 その後は、主に県内外から応援に来ていただいた、緊急消防援助隊の救急、救助現場への現場案内などをしていました。

聞き手

 パトロールや安否確認といった活動はされましたか。

中野さん

 緊急援助隊や自衛隊、警察が安否確認等を行うので、その場所に私たちが案内していました。

聞き手

 どのくらいの間、そうした活動をされましたか。

中野さん

 緊急援助隊が珠洲にいたのは52日間なので、2月いっぱいこうした活動を行いました。行方不明者が残り1、2名になった時から、土砂崩れで生き埋めになった方の捜索活動を2週間ほど行い、その後、通常業務に戻りました。

聞き手

 各地区の消防団と連携し、対応した事例等あれば教えてください。

源さん

 携帯電話で連絡を取り合い、発災直後の被害状況の収集や、火災現場に対応できない地元分団の代わりに対応できる近隣の分団に現場に行ってもらいました。こうした連携は、特に問題なくできました。

聞き手

 発災直後から、通信環境は問題ありませんでしたか。

源さん

 無線は概ね通じました。携帯電話については、エリアによって不感地帯はありましたが、場所を少し変えると繋がったりしたので、何日間も音信不通といったことはありませんでした。

聞き手

 各消防団からの連絡や、住民からの救助要請の連絡などがたくさんあり、対応しきれないといった状況はありましたか。

源さん

 要請に関して、1月2日、3日あたりはたくさんありましたが、緊急援助隊の支援が入り、そこで一気に解消しました。

聞き手

 警察や自衛隊との連携や情報共有する体制はできていましたか。

源さん

 情報共有については、珠洲市の対策本部で行なっていました。自衛隊は、ここに一旦拠点を置いていたので連絡は取れていました。警察もここに入ったり、署内にリエゾンの方とかもおられ、各機関との連絡は取れる状態でした。なお、自衛隊が入ったのは翌日で、そこから連絡は取れていました。

聞き手

 署に入った情報をどのように処理していましたか。

源さん

 捜索現場や救出現場をリスト化しました。当日、自分が署に駆けつけた時には、既に救急が出動中で、救助要請や火災要請などがたくさん入ってきていました。それをリスト化して、地区ごとに分け、優先順位を決めて、今出動できる隊と人数を選び、現場から現場に行ってもらったり、一旦戻ってきて別の隊で出動してもらったりと、やりくりして対応しました。

聞き手

 こうした一連の流れは、予め決まっていますか。それとも、現場で皆さんが工夫して対応されたのですか。

源さん

 これまで何度も地震があったので、予め決まっている流れはあります。そこから、やり易いよう修正したり、プラスアルファしたりして対応しました。

聞き手

 苦労したことはありましたか。

源さん

 今回は、情報指令課の指令システムが損壊したことで、「119」入電後の指令が出せませんでした。そのため、有線で電話が入り、この現場に入ってくれと言われました。通常であれば、出動場所の地図も一緒に入ってきますが、今回は一つ一つ地図で調べて現場を特定し、リスト化して、そこに行ける隊がいるかどうかを判断しました。指令センターができる前のアナログなやり方で、それが何百件とありました。

聞き手

 当日から現場に入り、被害の状況を目の当たりにして率直にどう感じましたか。

中野さん

 地震発生が午後4時でした。4時半ぐらいにはあたりは薄暗く、周りも中々見えませんでした。だから、そこまで酷い状況とは正直思いませんでしたが、現場に向かうため署から出たら、道路は地割れし、電柱の多くが傾き、大きな防災無線の鉄塔も倒れ掛かっている状況を見て、これは想像以上に被害が大きいんじゃないかと思いました。

地震で傾いた電信柱(2024年1月29日撮影)
聞き手

 翌日、明るくなってから建物の倒壊とかを見て、被害の大きさを実感された感じですか。

中野さん

 そうです。次の日というか、当日も救助現場を数件出動して被害の大きさを実感しました。多くの家が倒壊し、道路が寸断され、地震前の珠洲の面影が全くなくなってしまいました。

全国の消防署員等へのアドバイス

聞き手

 全国の消防署員や分団員の方々に対するアドバイスや、今回の地震から得た教訓等があれば教えてください。

中野さん

 今回の地震を「対岸の火事」とは思わず、いつ地震が起きてもいいような備えをしていた方が良いと思いました。自分の命を助けてくれるのは、自分しかいません。日本に住んでいたら、いつ災害が起きるか分かりませんので、非常物品等の準備や日頃からの防災に対する心構えを持つことが重要だと思います。

源さん

 発生から緊急応援消防隊が到着するまで、道路状況にもよりますが、時間を要することがあります。実際、隊が集結できたのも1日経った後とかで、それまでは、何とか地元の消防で頑張るしかなく、耐えること。そして、そこからは遠慮なく、他の応援隊に頼ること。地元の職員も被災しており、活動しながら疲弊がどんどん蓄積していくと、ストレスもかなりきつくなるので、隊員を休ませること。休息時間は、夜に限らず、日中でもどこでも良いので休ませる時間を取ってあげること。疲れが分からなくなってきている隊員もいるので、無理やりにでも休ませて次の出動に備えてもらうこと、そうした対応をとることが大切です。今回もそうした対応をとってきましたし、隊員の方に目を向けてあげて、休ませてあげることが大事だと思います。

自らの経験を踏まえ、全国の消防署員等に向けてメッセージを送る中野さん(右)、
源さん(左)(2024年10月30日撮影)

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